【かの家康も訪れた「江の島詣」とは?】江の島道のルートと杉山検校の道標

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江島詣とは?

江島詣とは江島に奉祀される弁財天へ礼拝するための一連のアクションのことを指す。

なお、「〇〇詣」と称する所謂、神仏に礼拝するための参詣は幾つもある。

一例:鎌倉詣、熊野詣、富士詣、成田詣、鹿島詣….etc

⬆️岩屋(本宮)に奉祀される江の島弁財天の御開帳へ詣でる人々の様子

江島詣が有名になったキッカケ

江島詣は1823年(文政六年/江戸後期)に上演された「御存 鈴ヶ森」として知られる歌舞伎「幡髄院 長兵衛 精進 俎板(ばんすいちょうべえ しょうじん まないた)」で広く知られるようになった。

ストーリーとしては、幡髄長兵衛が白井権八に「お若いの!待たしゃりませ!」と声を掛けるところから始まり、白井は「待てと言われれば‥‥」、次いで長兵衛が、「‥(割愛)‥遊山半分、江の島から片瀬へ参る道連れに‥‥」と白井へ告げたことによって物語が始ま〜るのだグぁ、この歌舞伎は当時の江島詣の有り様をよく表わした秀作として世に知られ〜る。

江の島詣が殷賑極まった時代

江の島詣が盛行した時期(江戸時代)は主に以下、3つに大別することが出来〜る。

江戸時代・慶安期

”島民”が長らくの”冬眠”から目覚めるかの如くに、江の島詣の参拝客相手に旅籠を提供し、右肩上がりで盛行した時期。

江戸時代・天和〜元禄期

”島民”や片瀬村の百姓たちが、これまた長らくの”冬眠”から目覚めるかの如くに貸し舟or渡し船を提供しはじめ、与願寺(現・江島神社)の坊中と紛争が頻発した時期。

※注釈※坊中=岩本院、上之坊、下之坊などの寺僧を含めた関係者

宝永期

負越(おいこし/人足の肩を借りて島渡りすること)が公認された時期。

この当時の負越料金は潮位によって決まったらしい。

先学の研究では、「江の島詣」という言葉はこれよりさらに下った時代より発生したとする。




江島道とは?

江の島道(えのしまみち)とは江戸を出立し、芝神明(飯倉神明宮/現・芝大神宮)を礼拝後、東海道を上りながら名所or宿場などを経て、一路江の島を目指すルートのこと。

東海道五十三次6番目の宿場である藤沢宿まで来たところで左折する形で南下し、片瀬を経て、”本当”に着けるの?‥などという不安を抱えながら江の島”本島”へ向かった。

複数あった江の島道

💋江戸方面からは保土ヶ谷宿から金沢八景、鎌倉を経て藤沢宿→江の島と到るルート

💋戸塚宿から大船を経て江の島へ到るルート

‥‥‥etc

上記のルートは江戸後期に刊行された「江島詣」と題した数多の往来物(おうらいもの/教育を目的とした寺子屋などで配布する教科書)に記されるもののごく一部に過ぎない。発行者によって見解が異なることから、ルートが複数存在した。

鉄板ルートは藤沢宿から龍ノ口を経て江の島へ到るルート。

他に一例としては、藤沢宿のやや北側に位置する「車田」からの分岐道を進むルートもあったらしいが、どうやら当時は藤沢宿からの道を正規ルートとして「江の島道」と呼んだらしい。

江戸から東海道を上って6番目の宿である藤沢宿に到る直前の「道場坂(遊行寺坂)」を降ると境川が臨めた。

この境川には大鋸橋(だいぎりばし)と称する橋が架けられており、橋を渡って左方へ進むと江の島弁天を遥拝できる鳥居があったそうな。


なお、この鳥居は現存しない。1746年(延享三年)に江戸在住の世話人や江戸講中らが建献したのを始まりとし、1823年(文政六年)に鋳替(いが)えられたが、明治期に撤去と相なった。

現在、鳥居があった事実を傍証するかの如く、沓石(鳥居柱の台石)が遊行寺宝物館の入口両脇に移置された様子がうかがえる。(後述参照💘)

鳥居をくぐった参拝者たちは皆々、江の島本島までの一里九町(約5粁)の道として、境川の左右沿岸を練り歩いたのだった。

道中には道標も幾つか建っていたらしく、道標を目印に行き交う人々の姿が当代の浮世絵などにも描かれ〜る。

江の島道入口鳥居の歴史と沓石

往時の江の島弁天遥拝鳥居は、遊行寺橋の西詰、自動車排出ガス測定局付近にあったとされる。現在の住所表記では藤沢一丁目。

⬆️いつものニキビ薬が切れていたので口アゴ付近ニキビ君にムヒEXを塗布したところ、余計に腫れてきたコレどないしまんねん状態ほど噂の…「遊行寺宝物館の沓石」(画像は藤沢市みゆネットより引用)

1823年(文政六年)に建立された青銅製鳥居であり、実は二代目。

初代鳥居は1769年(明和六年)に建立されたらしいが、なんにせよ1880年(明治十三年)11月の藤沢宿大火事にて焼損し、翌明治十四年4月に木柱銅板巻きの「3代目 木造鳥居」として再建された。

だグァ!明治三十三年頃に鳥居は撤去と相成り、沓石のみ残置された模様💘

なお、撤去理由は未詳とされるが、定説では腐朽によるためだと伝わる。

大正末期になると江の島道の新道建設計画が成り、残置された沓石も道路幅拡張工事の際に撤去と相成り、藤沢宿の宿人らによって近隣の清浄光寺(遊行寺)へ移置された模様❤️

すなわち、当該、沓石はその再建された三代目鳥居の沓石であり、その後に遊行寺宝物館へ、さらに移置されたことにな〜る。
(沓石側面に造立年代を示す「明治十四年四月 上巳 日 建 祇官 筥崎宏」の刻銘あり)

江の島弁財天を詣でた徳川家康

事の発端は1600年(慶長五年)2月、越後領主・堀秀治により「会津の上杉景勝に謀反の兆しあり」との知らせを家康公が受けたことに始まる。

家康公は颯爽と直臣・伊奈 昭綱(いな あきつな)を呼び寄せて会津へ下らせ、上杉景勝に上洛を命じたが景勝はこれを拒否。その後も度々、上洛を命じるも上杉側は断固拒絶し、挙げ句、上杉の参謀軍師・直江兼続が後世、天下に聞こえることにな〜る関ヶ原合戦のキッカケともなった「直江状」を家康に送りつけ、家康は大激怒。

手懐けた主君・豊臣秀頼より上杉征伐の大義と軍資金を賜った家康公は自ら陣羽織と軍配を手に取って軍勢を進発させ、一路会津を目指す。

これが俗に世に言われる「上杉征伐(会津征伐)」ではあるが、その途次、家康公は江の島へ立ち寄ったエピソードはあまり語られていない。

大阪から江の島までの家康の移動ルート

1600年(慶長五年)6月16日、家康公は大坂城より出陣し、まずは伏見城にて軍勢を整え、18日に伏見城を出立、23日には浜松に着到、24日に島田、25日に駿府、26日に三島、27日に小田原、そして28日に藤沢、29日に鶴岡八幡宮へと到り、武神(源氏の神)に戦勝祈願を済ませ、29日に江戸城へ入城した。

ルート地図

あまり語られてはいないが、実は家康公は藤沢での宿営の折、絵島(江の島)へ立ち寄って江の島弁財天に戦勝祈願をしてい‥‥申す。ひょ

家康公が片瀬海岸まで来た時、ちょうど潮位はアにゃルに”浣腸を”3発連続でくらったアハぁ〰️ん♥️度合ほど、”干潮”だったらしく、歩いて岩屋洞窟まで行き、窟内に奉祀される弁財天像を拝した。

その帰路の途次、島の浜辺まで来たところで獲れたてピチピチ💋の魚介類をタンま〜りと携えた漁師たちが公へそれらを献上し、海鮮料理も振る舞いたいと上申。

家康公はこれを快諾し、まずは下坊(下之坊)で昼食をとることになったが、なんにせよ至れり尽せりの”歓待”を、それこそ”艦隊”を1秒で撃沈するぐらい勢いで受けたのだった。どんな歓待や  そしてどんだけヘチョイ艦隊や

食事後も中坊(中之坊)上坊(上之坊)より、”正体”を隠しきれないほどに”招待”され、各坊の坊中ならびに漁師たちから数多の白銀・青銅を献上されたらしい。

ただ、今度は’艦隊’が2.5秒で撃沈されるほどの勢いにて”歓待”を受けてしまった事により、時間が経過し、潮位が満潮になってしまったので、坊中が出す船へ乗船することにな〜る。

上陸後は片瀬から腰越を経て鎌倉へ入部、その後、鶴岡八幡宮や建長寺などの鎌倉五山へも詣でたらしい。

会津征伐

7月2日に江戸城に入城した家康公は同月19日になってよぅやく会津へ向けて軍勢を進発させたのだったが、この時の総大将は嗣子の秀忠公だった。

三成の不穏な動きを察してか、はたまた次代の徳川の世を見据えて秀忠に武功を立てさせたかったのかは判然とはしないが、なんにせよ、そのわずか5日後の7月24日に石田治部が挙兵したことを知った家康公は急速反転し、三成と決するために西上の途につく。

家康来島後に急変した江の島

家康公を最大限にもてなした江の島の島民たちは、自ららは家康公のお墨付きをもらったとして、その後に起こった紛争の際には、公文書に家康公が来島した事実や、来島時に話した内容などを先例としてうまく持ち出し、紛争解決のための切り札・最終兵器として活用したと伝わ〜る。

事実、家康公来島後の江の島は代々の将軍たちも贔屓(ひいき)するところとなり、結果的に徳川将軍家ゆかりの場所ともなった。

また、徳川家の命運をかけた一戦・関ヶ原にて勝利をもたらした江の島弁財天は、現世利益大爆発!源氏(源頼朝卿)由来の勝利を呼び込む女神として、鎌倉(鶴岡)とセットで武家からも信奉されるようになり、江の島は隆盛を極めることになる。




江の島道標

江の島道沿道に建てられた道標(道印)は弁財天への報賽(ほうさい/お礼参りのこと)のため、はたまた参拝者たちが道に迷わないことを目的として、杉山検校(すぎやまけんぎょう)が私費を投じて建立したもの。

各地にあった江の島道の沿道に建立され、阿弥陀仏の四十八の誓願に因んで48基あったらしいが、時代を下りながら道路拡張・宅地開発などの理由で撤去され、現在は両指で数え切れるほどしか現存しない。

道標の概要

  • 高さ:約120cm
  • 材質:安山岩製
  • 形状:尖塔角柱型
  • 特徴:概ね「弁財天の種字(梵字)」と「ゑ能し満道」や「一切衆生」「二世安楽」など陰刻される。

⬆️PS4のコントローラーを股間のピィ〜に押し当てて振動させまくり、新たなアハ〜ん❤️快感に溺れはじめた堕ちていく‥ワ・タ・シ💋具合ほど噂の‥‥「江ノ島道の道標(すばな通り商店街)」

⬆️「二世安楽」の陰刻が見え〜る

⬆️「一切衆生」の陰刻も見え〜る

⬆️遊行通り分岐点の江ノ島道の道標。最上部「梵字」とその下に「ゑ能し満道」の陰刻。画像はウィキより💘

平亭銀鶏が著した「浜のさゞ波」によると、境川には石上・片瀬の村人たちが舟を連結させて橋とし、通行人から1人5文の渡し料をとっていたらしい。




江の島に到着後のルート

江の島着到後は島内の霊所へ詣でて、茶屋での小休憩を混えながら古跡、名所などを歴覧し、坊中が営む宿へ泊まる者もいれば、その後は帰路をとって鎌倉や六浦、金沢へと到る者もいたことが当時の文献に記される。

なにより江の島は島という立地柄、海鮮食材には事欠かず、アワビなどの貝類、鯛のさしみ、お吸い物などを供する海鮮フルコースメニューで名を馳せた。

ただ、江の島対岸の片瀬まで来たところで、これまた一難待ち受ける。

片瀬海岸船着場から江の島までの渡海舟料金

その一難、つまり難所こそが海水の干満にある。

 

片瀬から江の島までは砂や小石が堆積した砂洲(洲鼻)が発達し、参拝者は海岸まで来たところで歩行するのか、満潮であれば渡し船や負越(肩貸し)を利用して渡海する他ない。(ただし、島内坊中の檀家であれば、坊中が操船する渡し船に乗船できた)

当時、江の島対岸の砂浜から江の島本島までは約126メートル(十一町四十間)あったらしい。

なお、片瀬村や’島民’が長らくの’冬眠’から目覚めるかの如くに負越で稼ぎ出すと、中にはヤクザ紛いに法外な渡し賃をとる者も出始めた。

このような事態を受け、島内の坊中も大人しく指を加えてはおられず、神仏を冒涜する行為として負越人たちと度々、意見を戦わせ、時に武力行使に及ぶなど、負越人たちとの間に紛争が絶えなかった。

1806年(文化三年)編纂の「道中記」によると、坊中の代表格・岩本院は片瀬海岸の船着場で小旗を立てる参拝客がいれば、下之坊から渡海無料の迎舟を出した事実を記す。

大奥代参事件

負越人たちの暴威が極まる頃、折しも江戸城大奥御代参の一行が海岸までやって来た。

実は負越を公認されてから後、負越人たちの横暴はエスカレートし、定められた賃料意外にも過分な賃料や酒手(酒代)を客からとっていたらしく、やがてシコタマ貯め込んだ資金で造船し、渡し船を経営する者も現れた。

ところがある日のこと、稼ぎを大きくするために参拝客を一度に多く乗船させ、舟を水没させてしまった。同船していた負越人たちは救助の義務を放棄し、我先にと一目散に岸辺へ避難してしまったのだ‥‥‥グァ!運が悪かった。

よもや、お上(将軍さま)直属の大奥代参者が乗船していたとは夢にも思わない。

この時も負越人たちは、いつも通り、本来の負越賃10文のところ、5倍の50文もとっていた。

後にこのことが大奥女中の立腹を経て将軍様の耳に入ったことは言うまでもなく、結果、参拝人が大勢いる世情もあって負越業の廃止にまでは到らなかったが、代わりに別当職の岩本院との間に次のような誓約を取り交わさせられた。

月に変わってお仕置き💋

その一、毎年4月朔日より8月晦日(末日)までの間までの舟賃は片道7文、9月朔日より3月晦日までは10文とすること。

その二、参拝人が自らの意思で越す(渡る)場合、それを干渉(妨げる)する行為を禁ず。

その三、今後、負越は控え、舟を持つようにすること。

その四、アにゃルに”浣腸(かんちょう)”を食らうアハぁ〜ん💋な如くに(マゾは、カモぅぉ〜ん💋)、”干潮”の時に船が出せず止む無く負越に到る場合、海水が膝下までの場合は16文、膝上ならば潮位を勘案して30文、最大72文までと定める。

その五、風波が良好で無い場合、たとえ参拝人が懇願しても舟出しor負越は控えること。

【参考】江戸から江の島までの旧江の島道


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