一遍上人の島井戸(一遍上人成就水道・江之島水道)

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一遍上人の島井戸

(現在の)井桁サイズ:四辺約40㎝

⬆️最近、枕を臭ったらオッサン腐臭がした腐臭具合ほど噂の…「一遍上人の島井戸(井桁)」

一遍上人が江の島に井戸を掘った理由(歴史)

総本山を遊行寺(藤沢市)に据える時宗(じしゅう)の開祖である一遍上人が遊行した旧跡であり、飲料水に困窮した島民を助けるために掘り当てた井戸と伝わ〜る。

⬆️「一遍上人成就水道」と陰刻された石標

⬆️陰刻?刻銘?が風蝕のために見えない「今は名もなき石碑」




一遍上人が江の島に来島した理由

1282年(弘安五年)、一遍上人は布教活動の一環で鎌倉へ入部したいと時の執権・時宗へ打診したが、入部を拒否され片瀬の浜に4ヶ月間も逗留することとなった。

逗留の間、江の島の島民たちが水不足に悩んでいるとの話を耳にし、不可能とまでいわれながらも江の島島内で井戸を掘削しつつづけ、神仏に願いが通じたのか、見事!井戸を掘り当てたのだった。

江の島は地層地質が障害となって水が湧出しにくく、このため島民たちは大船を用いて片瀬川の水を運んだり、来客が多い時期、宿坊(旅館)などは海水で塩湯を沸かしたりしていた。

江の島に水道が開水した時期

江の島の対岸・鵠沼在住の富豪・高瀬 弥一(たかせ やいち)がある時、自宅敷地内にて井戸を掘削したところ、鵠沼の地下より湧出量豊富な水源を掘り当て、これを資本として1926年(大正15年)3月13日に江之島水道株式会社を創立(資本金125,000円)した。

弥一は早速、自宅敷地を水源として旧江の島道に水道管を埋設する工事に着手し、同年12月14日に江の島までの飲料水供給が実現した。

一遍上人とは?

⬆️遊行寺境内の一遍上人”銅像” ….を”どうぞ”(画像引用先:ウィキぺディア

一編(いっぺん)は伊予国でこの世に生を得た人物と伝わ〜る❤️

1274年(文永十一年)2月8日に全国を対象とした遊行を開始し、四天王寺(摂津国/大阪)、高野山(紀伊国/和歌山)などへ行脚し、修行を重ねる。

程なくして「六字名号」と記した念仏札を配布しはじめた。

参籠した紀伊国の熊野本宮では、熊野権現(阿弥陀如来の垂迹身とされる)が夢枕に立ち、「衆生済度のため 信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。

この夢告後、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追け加わえ、「一遍」と称した。
ここに念仏さえ唱えれば極楽往生できると説く、時宗(時衆)の根本的宗旨が誕生した。

1279年(弘安二年)には、伯父・通末が配流された信濃国伴野荘へ訪問し、後世、世に広く知られることになる「踊り念仏」を開始す。

一編が踊り念仏を始めたキッカケは、リスペクトする市聖(空也)や我が国における念仏の第一人者とされる平安期の僧・教信(きょうしん)を模倣したらしい。

時宗確立の契機ともなったのが、豊後国(北九州)へ訪れた際に入門者を増やたことによる。一編は彼らを”自習”するぐらいの勢いにて「時衆」と称して随伴させ、全国遊行を継続した。

なお、今日の”時宗”の表記は、江戸初期の文献から見られはじめたものであり、比較的、近世になってから用いられたことにな〜る

その後も祖父が眠る陸奥国稲瀬や松島や平泉、常陸国や武蔵国へ行脚し、そして1282年(弘安五年)に鎌倉へ到るも入国を拒否される。(以降、生涯を通して鎌倉入りは実現しなかった。)

1284年(弘安七年)に上洛すると、京師でも踊り念仏を披露し、さらに信者を増やす。

鎌倉以後は厳島神社(宮島)、故郷の伊予、大山祇神社、善通寺、曼荼羅寺、大和大国魂神、そしてリスペクトする教信の墓がある教信寺(播磨印南野/兵庫県加古川市)へ行脚する途次、摂津国 兵庫津の観音堂(後の真光寺)にて死没す。

ここに15年半にもおよぶ遊行の終末を迎えた。享年51歳(満50歳没)。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調とされ〜る。

なお、一遍上人の直筆とされる「一遍成就水」の額が江島神社に現存す〜る。

また、近隣にある蓮華池も一遍上人の修行場の旧跡とされ〜る。

一遍上人の島井戸の場所(地図)

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