【聖天島公園の歴史や名前の由来】聖天上人像社や良真上人・双体道祖神とは❓

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「聖天島」と呼ばれる理由

聖天島公園内には神仏が奉斎される神社のような建物があり、その後方には陰毛級に木々がボーボーと繁茂した露頭(ろとう/岩肌が露出した)の懸崖状の場所(露頭)がある。

⬆️半沢直樹最終回の視聴後 即、感極まって「300倍返しにしてやる!」とイキって大声で叫び散らしたが、刹那の逡巡、隣人から壁バンうるせぇ報復3発クラった現実 倍返し&引越検討 到来具合ほど噂の‥‥「聖天島公園内の様子」

実はこの懸崖状の盛り上がった場所は、かつて独立した孤島だった名残りであり、古くから歓喜天(かんきてん)の姿態に酷似していることから、「聖天島」と呼ばれ親しまれた。(歓喜天は「聖天」とも呼ばれる)

⬆️明治三十五年頃の江の島の古写真

⬆️高橋由一氏作の油絵「江の島図(1876〜77年頃)」にも”聖天”島が”昇天”する勢いにて描かれる(画像は文化庁より)




聖天島には なぜ歓喜天が祀られているのか?

‥‥‥という疑問が生じるのだが、現在、歓喜天は祀られておらず、良真上人像(通称:聖天上人像)が聖天神社の社殿内部に素敵に奉安されるのみ。….素敵?

聖天島公園の歴史

現在の江の島は時代が下るたびに埋め立て工事が実施され、拡張を積み重ねてきた歴史がある‥‥と言われるが、一万年前はもっと大きかったらしい。(下掲図参照💘)

当該、聖天島公園内を見渡せば分かるように、懸崖上に木々が陰毛状ボーボーと繁茂しまくった、それこそ島だったことが分かる箇所がある。

その陰毛の前方に神仏を安置する堂舎と、さらにその前方に実に現代的な岩瀬砂(真砂土)で土壌整備された公園が広がる。…陰毛の前方?

察しのとおり、現在の聖天島公園は1964年(昭和三十九年)の東京オリンピックの折、江の島がヨット競技の会場に指定されたことから、ヨットハーバー整備の一環で整備された後の姿となる。

しクぁしながら、関東大震災(1923(大正12)年9月1日)後に周辺の地面が約1メートル隆起し、江の島”本島”と”本当”にぅぃ?‥‥と疑いたくなるほどに地続きになった。ふぅ

すなわち、その後に整備され、現在の姿になったことになるのだが、地続きになる以前はアワビやワカメ、岩海苔がよく漁れたらしい。

地続きになった聖天島の様子は地図にも描かれ〜る

⬆️地理学研究社刊行の昭和二十年の江の島鳥瞰図

上掲、昭和二十年頃の江の島を鳥瞰すると「聖天岬」と記されていることが分かる。

元来、稚児ヶ淵とは逆方向に独立した孤島があったが、大正期の関東大震災で地表が隆起し地続きに。アにゃルに”浣腸”される快感に目覚めはじめた喜びほど噂の”干潮”時には徒歩で渡れたらしい。

⬆️現在の江の島を鳥瞰した様子(Google マップより)

上掲、現在の江の島の鳥瞰地図と昭和時代の地図を比較してみると、島の東側約半分が埋立地であることに気づく。

⬆️江の島大絵図 藤沢市文書館寄託岩本院文書(1990年/平成2年)にも「聖天岬」と記される

「岬」と記されているということは、陸地が突き出た所を意味し、地続きであった様子がうかがえる。

江の島が史跡・名勝地指定から解除された理由

上記のように江の島はオリンピックのヨット会場に指定されたことで新港建設が急務となったが、ここで次のような2択に迫られた。

文化財保護法の保護を解除し、新港を建設してオリンピックで江の島ブランドを世界に広めるのか?

それとも史跡・名勝地としての景観保存を優先し、これまで通り日本屈指の景勝地・江の島としてのブランドを継承していくのか?

当然のことながら、新港建設に反対する動きと賛成する意見に分かれたが、結局、オリンピックという世界的な看板に気押され、新港を建設する方向で着地した。

しクぁし!その半年後の10月14日に神奈川県が県指定史跡・名勝に登録する挙動に出た事実をもってして、反対派に対する伏線だったともみれる。

この新港建設によって猟師町の東海岸と聖天島の周囲が埋め立てられ、東方向に陸地が拡張される結末をもたらした。




聖天神社(聖天上人像社)

公園内でひときわ目を惹くのが、神社の社殿風の建物ではなかろぅか。

この建物内部には想像のとおり、神仏にまつわる霊物が奉斎されているわけなのだが、それがGoogleマップにも表記される「聖天上人像」という人像にな〜る。

ただし、厳密には「良真」という中世の僧侶の人像であり、星霜経ながら尊崇を集め、やがて「聖天様」と呼ばれるようになったとな。

良真とは?

良真という人物は、1204年(元久元年)に鎌倉幕府3代将軍・源実朝に下之宮(現・辺津宮)の再建を懇願し、1206年(建永元年)に再建を成就させた僧侶であり、かつては下之宮にあった開山堂内部にて同氏の人像が奉置されていたらしい。(現在、中津宮には同氏に関連する「宋国伝来の碑」あり)

ところが、廃仏毀釈によって開山堂が廃堂となり、現在は聖天公園内の御堂(殿舎)に遷座の上、奉祀されている模様💘

ドウロクジン(道陸神/道祖神)」

現在も公園内の小祠にて見られるのだが、左側に檜扇(ひおうぎ)を両手で手持った立ち姿の女性と思わしき半肉彫りの石仏と、その右側に衣冠束帯に烏帽子、同じく檜扇を手持った男性と思わしき坐像姿の半肉彫りの石仏が見える。

しクぁシながら、地元では古くから「双体道祖神」とも呼ばれるように本来は一枚岩を彫り抜いた石仏であったとする見方もでき〜る。

双体道祖神とは?

双体道祖神とは、一組の人像を並列状に並べて奉置した道祖神であり、先学の研究によると主に江戸時代初期以降に数多く造立されたらしい。

双体道祖神は中部・関東地方(長野県、山梨県、群馬県、静岡県、神奈川県)などに多く分布する。

道祖神まつり

地元民に尋ねたところ、毎年1月14日に「道祖神まつり」があって藁舟に道祖神像を乗せて島内の家々を一軒々々まわり、道祖神の大好物である酒をかけてまわる風儀があったらしい。

すべてまわり終えたら藁舟だけを海へ流し、向こう一年の漁業豊漁、海上交通安全、一家繁栄を祈願したそうだが、現在は木船に像を乗せて瑞心門下で遥拝し、再び小祠へ戻るのみに簡略化された模様💘

龍宮神

聖天公園内でもっとも小さな石祠には「龍宮神」と書かれた神札?‥‥のようなものが見える。

龍宮神とは「わだつみのかみ」と読み、これは奥津宮にて奉斎される龍神のことを指すと思われる。

以下、龍宮に立てられた看板の内容を引用したもの。

江ノ島は湧出以来、龍の棲む所と云われ、古来、龍神は弁財天信仰と習合し、密接な結びつきがあったとされ、江ノ島縁起を始め、多くの伝説が残っています。

太平記には時の執権・北条時政が江ノ島に参籠して子孫の繁栄を祈願した時に、龍(大蛇)が現れ、3つの鱗を落とし、時政祈願成就と喜び、その三鱗を授かり、家紋と為す。

「足利治乱記」には海に夜海光ありて白龍長さ廿丈許(にじゅうじょうばかり/約60m)もあるが、海中より出でて、絵馬石穴に飛び入ると、諸人多見之と、謡曲「江ノ島」には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅七福即生悪事災難を払いて諸願成就を誓う声も新たに聞こえたとされる。

伝記は多く残されており、この神秘なる趣意を鑑み、平成6年9月吉日に当社、発祥地たる岩屋洞窟の真上に御鎮座とあいなった。

江の島界隈には5つのド頭を持つ五頭龍伝説もあるなど、何かと龍にまつわる”伝記”が、”電気”ウナギ水槽にお手手つっこんでGOGOヘブンが如くに、クソ多い印象があ〜る。




看板の内容

僧侶・良真は1204年(元久元年)2月、中国宋国へ渡海し、慶仁禅師に参じて受法聞かずして日本に霊地・江の島ありと知る禅師より、そこに社壇を開くべしと教えられ”貴重”とするほどに”帰朝”する。

後に江の島東岸の巌窟に籠り一千余白の間修行を重ねた良真が1202年(建仁二年)7月、窟内に紫雲香気満ちて天女が壇上に現出し、給うを見る。以来、此処を聖天島と謂う

さらに時の将軍・源頼朝卿の帰依僧となる

良真は実朝の懇志を受け、下之宮(現在の江島神社・辺津宮)を創建す。

1206年(建永元年)編纂 江の島縁起より抜粋

聖天島

島の東岸にあり、天女影向の古跡という、窟内に良真の像を奉安す。(1804年/天保十二年新編相模国風土記より)

爾来、慈悲上人・良真に依り、ここ江の島東岸一帯の地霊は守護されるとして島人は聖天上人と仰ぎ、崇教を集めて現在に到る。

⬆️角度を変えて公園内を撮影💘

聖天島の地層

聖天島の地層は旧来、池子層(約400万年から約200万年前の地層)が定説とされてきたが、1984年に延命寺裏の崖で片瀬中学校理科部の生徒が「ミウラニシキの化石」を発見したことから、それより古い時代の逗子層(約800万年から約400万年前の地層)だった事実が明らかにされた。

この発見により、江の島の地層が三浦半島から連なる「三浦層群」と称する地層だったことになり、事実、露頭から逗子層の特徴でもある砂岩や火山噴出物、岩片、軽石が多く検出されてい‥‥ますクっ…(耐)

聖天公園内の様子or設備

公衆トイレ、自販機、ベンチ、遊具‥‥‥etc

弁天大橋や青銅鳥居のあたりは、平日でも何かと混雑しているも、聖天公園の界隈までは、”聖天”だけに”昇天”しちまって少しあの世が見えちまったほどに足を運ぶコノヤロー共は希少💋

ションベンorクソ垂れ がてら、人混みから離れてホッコリとできる場所でもあ〜る💘




聖天公園から中津宮(広場)へ行ける!

聖天公園まで来てしまぅと弁天大橋前の青銅鳥居が立つ正面入口まで戻らないといけないので、わざわざ行くのが面倒!‥‥と思っちまぅコノヤローもいることだろぅ。

だが、安心しんしん雪積もるほどにご安心を💋

聖天公園から山裾に軒を連ねる住宅街の間道を抜けて山頂まで行けるようになってい‥‥申す。あひょ

⬆️最近、足裏カカト周辺の皮のめくれ易さ&軽石でゴシゴシし始めた、年齢ごまかし人生始まり具合ほど噂の…「中津宮への裏道」

山裾の住宅街には、かき氷の店や、カフェ、海鮮料理を提供する店なども数店舗あり、当地まで足を運ぶコノヤローもいないことから、穴場的な位置付けではある。

江の島に来飽きたコノヤロー共は必見❤️

聖天公園の場所(地図)

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