伝・大江広元の墓と歴史|鎌倉市十二所

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伝・大江広元の墓

  • 様式:層塔
  • 高さ:1.77メートル

伝・大江広元の墓の由緒(歴史)

鎌倉時代

大江広元公は、おそらく十二所の邸宅で病床に伏し、そのまま最期の時を迎えると、速やかに現在の十二所山奥に埋葬された。

当地が選ばれた理由については後述する。

江戸時代末期

江戸時代末頃、村役人より村人たちに本塔の所有者や管理者などについての実態調査が実施された。

その折、管理方法や所有など、後々のわずらわしさを加味した村側は、層塔の上部を谷へ落とし、ただの大石に見せかけて実在しないと報告したとな。

昭和初期に五層層塔へ戻される!

星霜経た1942年(昭和17年)のこと、層塔の歴史を知る者が復興を願って谷底へ落とした層塔の上部石を積み上げ、もとの五層の層塔へ戻した。

本来9層の塔だった?!

村の言い伝えによれば本来、本塔は9層か7層だったとされ、それが時代を下るにつれ、現在見られる5層になったとのこと。

この事実は鎌倉市史の考古編にも記されてい‥‥申す。ギャホェっ

本塔およびその周辺は古くより「塔の峰」と呼ばれる

本塔が立つ現地に来れば分かることだが、この場所は尾根伝ぃにはなりつつも、標高が少し高くなっており、それこそまるで「峰」のようになってい‥‥ます。

「層塔が立つ峰」ということで地元住民やこの山道を通る旅人たちなどから、時代を下りながら「塔の峰」と呼ばれるようになったことが想像につく。

古くは「はじめ弁天」とセットで巡拝した

この伝・広元の墓場所の南側には「はじめ弁天」と呼ばれる石祠がある。

この石祠は古くは麓の明王院の鎮守社として「弁財天」が奉斎されていたとされるが、これは江ノ島の弁財天へ詣でる際、いちばん最初に礼拝する弁天さまということ「はじめ弁天」と命名されたと云われる。

往古、江ノ島へ詣でる人々は、はじめ弁天からこの広元の層塔へ到り、瑞泉寺や八幡宮をを抜けたと伝わる。

江戸時代の江ノ島詣の想定ルート(江戸方面⇆鎌倉⇆江ノ島)




伝・大江広元の墓周辺の様子

塔の奥に貞子が封じ込められていそうな謎の井戸がある!

⬆️井戸から見える枯葉が貞子の手に見えるのは‥‥気のせぃ?

これ、夜来たらションベンちびるどころでスマン。めちゃ怖ぃ。絶対!

年代を経た横たわる石コロを発見!

層塔のすぐ裏側あたりには長細い長方形の石コロころころドコいった‥‥‥が、まるでオカンが昼寝するかの如くに横たわるようにして置かれてい‥‥申す。アヘっ

一見すると石標のようにも見える。

それと表面に複雑に切り刻んだような痕が見えるが‥‥‥、これは何かを刻んだ陰刻の痕跡なのか?

伝・大江広元の墓(層塔)のディティール(特徴)

割れている石がある!

この層塔の上部は前述の谷底へ投げ捨てられたことを証明するかの如く、ジッくりクリリンが気円斬を放って切り刻んだかの如くに大きく削れている様子がうかがえる。(特に3段目の石コロに注目!)

見た感じ室町以前の層塔とみる

見たところ、材質は鎌倉石(凝灰質の砂岩)とみる。

なんにせよ、この層塔は風食が著しく年代判定に困難が伴ぅものの、各部に見られる僅かな傘状の形状などから室町かそれ以前の層塔とみる。

貴人の供養塔の可能性が高い‥‥‥やはり大江広元か

まとめると、この層塔が当初から当場所に在ったのかは不明。

時代が下る過程で誰かが動かした可能性も考えられる。

ただ、伝承にある畠山重忠級の怪力でなければ、おそらくこの場所まで運び込んでくるのですら、もしくは移動ですら困難が伴ぅのは必定!

目的無くこのようなクソ重てぇ巨石を、わざわざ山の頂まで運び込むことは皆無。だとすれば当初から貴人=大江広元の墳墓として当地に建てられた可能性は高ぃ。

むしろ、このようなクソ重てぇ石コロを、このような山奥の頂まで運び込んでくる重労働を伴った実態こそが、それなりの地位に在った人物を示す証明とも成り得る。うきゃ




反対側(瑞泉寺方面)から見た伝・大江広元の墓の様子

う〜ん、この層塔はやはり明王院側の山道を登ってきた位置から見るのが、もっとも見栄えが良い💘

広元の墓脇の椎の木の樹齢から考察する広元の墓(層塔)の実態

この広元の墓脇に生える椎の木は見たところ、幹の太さなど見るかぎり樹齢100年にも満たないとみる。

周辺の木々を見ていても鎌倉の谷戸特有の雑木林になっていることから、おそらく鎌倉時代当時、この場所からは周辺の景色が一望できたのではなかろぅか。

十二所の広元邸からは見て当地は少々離れているものの、付近周辺ではもっとも標高があり、おそらくこの場所から広元邸が綺麗に目視できたのではなかろぅか。

‥‥さぞかし広元の墳墓としては理想的な場所だったのだろぅ。

西御門にはもう1つの大江広元の墓がある!どっちが本物?

八幡宮付近の西御門の義時の墓(義時法華堂)の丘上には、伝・「大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓」がある。

つまり、もう1つ大江広元の墓があることになる。

⬆️ストローを勢いよくブッ刺したら容器の中に入りやがって、コレどないまんねん! ‥ってなった時の心境ほど噂の‥‥「もう1つ(西御門)の広元の墓」

地元では古くから西御門の広元墓は、この十二所の山奥にある広元墓を遥拝するために建てられたとする言い伝えがある。(十二所の山上まで行くのが困難だからという理由らしい)

ただ、大江広元の邸宅は鎌倉中に数ヶ所あり、その中の1つが大倉の義時邸付近に所在したことから、ひょっとすると‥コチラが本当の広元の墓いう説もある。

しクぁし!

現在までの通説では、西御門の広元墓は、広元の子孫である毛利氏が江戸時代に建立したとされ、だとすれば本来の墓は十二所という事になる。

ただ、江戸時代に広元墓を建てる際、義時法華堂の平場も整備されている事から、ひょっとすると広元のボーン(お骨)を西御門の方ヘ移してきた可能性もある。

だとすれば、いずれが広元の本当の墓なのか区別が難しくなる

大江広元の墓が2つある理由

鎌倉に大江広元の墓が2つある理由は、前述のように江戸時代に大江広元の子孫である毛利氏が鎌倉の中心地付近(八幡宮近く)に建てた事による。

鎌倉時代の慣習で例えるならば、源静香‥‥ではなく、源頼朝卿!!や北条義時ともども死没後は速やかに自らの邸宅付近の山上に埋葬されていることが分かる。

大江広元で例えると、頼朝卿より最初に賜った邸宅が十二所とされる事から、死没後はその周辺の山上(高台)が検分され、現在の塔の峰が選ればれたとみる。(下掲地図の目玉親父の場所)

⬆️大トイレに飛び込んだら据付テッシュ切れで究極の選択(ハンド)に迫られた時ほど噂の‥‥‥「大江広元邸趾」

なぜ広元の墓は当地(塔の峰)に建てられたのか?

しクぁしながら、当地後方のハイランド方面にも高台となる山があるにも関わらず、なぜに敢えて現在地が選ばれたのかに謎が残る。

十二所の広元邸宅前には当時、実朝建立の大慈寺(だいじじ)とその伽藍が広がっていたハズ。

現在の広元の墓は位置的に見て、その大慈寺奥の山上になる。

距離的にみても邸宅から離れている上、行くことすら困難な位置にある。

これはひょっとすると、あえて行きづらい場所に建てるように広元が遺言したのかもしれなぅぃ。




実はミニストップ裏の高台には大江稲荷が建っていた!

現在、大江稲荷を所管する同じ十二所に位置する明王院にお聞きしたところ、どうやら元来、大江稲荷は大江広元その人が自らの邸宅を建てる際に土地神として、はたまた屋敷神として邸宅裏の高台に奉祀したのが起源らしい。

その当該、大江広元の邸宅の場所とは、現在のミニストップが建つ地、住所で示すと「〒248-0001 神奈川県鎌倉市十二所931」となり、その後方の高台となる山の頂に、かつて大江稲荷が祀られていたことになる。


⬆️上掲地図の目玉親父の場所が往時の大江稲荷の場所

⬆️よおっ!‥‥と大声で呼び止めたヤツが別人やって、その先に居ると思わせて通り過ぎた時の心境ほど噂の‥‥「ミニストップ十二所店の裏山」

広元が今も鎌倉を護ってくれている⁉️

現在の広元の墓とされる層塔を少し離れて見ると、層塔の右隣には椎(しい)の木が大きく根を張り出し、その茂みの間からは付近の景色が、ベテラン”司会”者の絶妙トークの如くに”視界”に入る。….分かってくれた?

⬆️ピアスの後のネジの止めにくさ(回しにくさ)ほど噂の‥‥「広元の墓横の茂みの間から覗き見た周辺の景色」

おそらく往時は当地から”眼科”に行ってコンタクトを買ぅ如くに、”眼下”に大慈寺の伽藍が広がり、その向こうには若宮大路が、かすかに遠望できたのではないか? 連発きたよ

まるで広元が椎の木に乗り移り、死後も鎌倉の街を守護するかの如くに大きく根を張り出しているように見えるのは‥‥気のせいなのだろぅか。

もし仮に層塔の下あたりに広元のボーン(お骨)が埋まっているのだとすれば、その真横にそびえ生えるシイノキに魂が乗り移ったとしても、何ら不思議ではぬぅぁい。




ところで‥‥‥大江広元とは?

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

大江広元(おおえのひろもと)とは、鎌倉幕府の政所の初代別当を務めた人物であり、承久の乱を経て鎌倉幕府が全国統治した時代を開創に導いた功労者でもある。

源頼朝その人とも縁があり、頼朝卿の先祖である八幡太郎義家公(源義家)に軍略を教えた大江匡房の曾孫でもある。

また、代々、大外記明経博士を頂点とした文官の家柄でもあり、広元は明経道(みょうきょうどう/大学寮)で学び、1184年(元歴元年)3月に頼朝卿に請われて家人となってい‥‥申す。きゃ

大江広元の性格

大江広元は冷徹さと緻密さを兼ね添えた典型的な能吏型(事務処理に優れた官吏)の性格とされる。

これについては後年、「成人してから後、涙を流したことがない」と述懐したエピソードが有名💘

晩年は失明した後に病に倒れ、1225年(嘉禄元年)6月10日、78歳にて没する。法名は「覚阿」。

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