初め弁天(はじめ弁天)
名前の由来
江ノ島の弁財天を詣でる際、まず最初に当弁天を詣でたことから、「初め弁天」と呼ばれる。
また、当弁財天を「初め弁天」とするのに対し、江ノ島の弁財天は一番最後に礼拝することから、「終まい弁天」や「終わり弁天」などと呼ばれたと伝わる。
初め弁天の歴史
初め弁天とはいえ、現在、この場所には石祠しか無く、それが弁天だと分かる者は地元の者か、この山道を幾度も往来した旅人たちになるが、かつては麓の明王院の鎮守社として「弁財天」が奉斎されていたらしい。
鎌倉を経由した弁天詣
江戸時代半ば頃、元禄時代あたりになると特に吉原の遊女たちを中心とした江戸庶民の間で、江ノ島弁天へ詣でる「江ノ島詣」がブームとなった。
なんといっても江戸から江ノ島までは確たる関所が無く(江戸の次は箱根)、国境を越えるのに一苦労だった女人たちが、こぞぅようにして江ノ島まで足を運んだのだった。
道のりとしては江戸から東海道を通って保土ヶ谷→金沢(横浜)を経て、朝比奈の峠を越えて(朝夷奈切り通し)→金沢街道へ、もしくは「大山詣り」で知られる「大山(神奈川県伊勢原市)」を経るルートもあった。
金沢街道から鎌倉ヘ入部した後、まずはこの明王院の初め弁天へ参拝し、ここからさらに鎌倉市内の宇賀福神社(銭洗弁天)などの弁天を巡拝しながら、江ノ島弁財天を目指したのだった。
江ノ島弁財天は別名で「終わり弁天」とも呼ばれた!
当弁財天が「初め弁天」と呼ばれるのに対し、最後のゴール地点であり旅の目的ともなる、江ノ島弁財天は最後に礼拝する弁天さんということで「終わり弁天」もしくは「終まい弁天」などと呼ばれたとのこと。
江ノ島への道標(杉山検校道標)
江ノ島詣といえば熱狂的な江ノ島弁天信奉者として知られる「杉山検校(すぎやまけんぎょう)」の名前が挙がる。
杉山検校は「検校」が付くように「盲人」ながらも、生涯で数えきれないほど江ノ島へ詣でたが、自身が江ノ島へ詣でるための道標(道しるべ)として、はたまた旅人たちが迷わないよぅ、道の途中に「”江のし満”や、”恵乃之満遍”などと陰刻した石標」を立てた。
⬆️江ノ島すばな通り内に建つ江ノ島への道標(杉山検校道標)
現在、この石標は藤沢市を中心に鎌倉を含めた15カ所ほど現存する。