二階堂とは❓
鎌倉時代は「二階堂」、もう少し時代が下ると「二階堂村」などと呼ばれた地域。
地域の中央には滑川支流の二階堂川が流れるなど風光明媚な場所。
昭和37年の住居表示以降も「二階堂」は継承され、「鎌倉市二階堂」と記される。
「二階堂」の地名の由来
江戸期に編纂された新編相模国風土記稿によると、地名の由来は1189年(文治五年)8月、源頼朝が奥州藤原北征より凱旋の折、奥州で見た中尊寺大長寿院の二階堂を模して当地に永福寺を建造し、別名で「二階堂」とも呼ばれたことに由来すると記す。
また、江戸後期に編纂された「鎌倉撹勝考」によると、永福寺建立の際、「大倉(大蔵)の二階堂」と呼ばれていたと記し、後に「二階堂谷」の名前が生じたとも記す。
鏡の1224年(元仁元年)正月4日によると、北条政子が「二階堂ノ家(二階堂行村の居館)」へ向かったが方違え(向かう方向を一旦、変える)た記述がみえることから、1224年にはすでに二階堂と呼ばれていたことになる。
続く1242年(仁治三年)には「東関紀行」の作者が永福寺を訪れた折、「二階堂、ことにすぐれたる寺也」と心情を明かしてい申す。アっ
※「方違え」とは❓
方違えとは、占いの結果による凶方位を避けるべく、一旦別の方向へ行くこと。主に平安貴族が便宜上していた行為。迷信の類ではありつつも武家でも重んじられた。
工藤行政が二階堂を名乗る!二階堂氏の祖となる
工藤行政は鎌倉幕府の御家人になった折、頼朝卿より現在の永福寺近郊に居館(所領)を下賜され、奉公した。
元来、工藤氏は藤原氏南家 伊東流の出自。(藤原氏南家は、奈良時代の藤原不比等の長男・藤原武智麻呂を流祖とする藤原氏の流派の1つ。)
やがて頼朝卿が工藤行政の居館の近くに永福寺建立を計画すると、本堂が「二階堂」と呼ばれ始める。すると永福寺を中心とした周辺地域も「二階堂」と次第に呼ばれるようになっていった。
それに因んでか、はたまた忠義の証としてか、自らも「工藤」改め「二階堂」を名乗り、以来、二階堂氏は星霜経て、現代にまで系譜が続く名門の家柄へとなっていく。
永福寺が荒廃した後も「二階堂」と呼ばれる
永福寺は1405年(応永十二年)12月17日に炎上してい申すが、これ以後は再建された記録がない。
15世紀半ばに鎌倉府が滅び、足利成氏が下総・古河へ移った後は急速に荒廃していったと思われる。カっ
戦国時代の二階堂の呼称
それ以後の記録としては、戦国時代に「小坂郡 二階堂郷」と記される。
安土桃山時代の二階堂の呼称
1590年(天正十八年/安土桃山時代)4月、太閤秀吉が「豊臣秀吉禁制」を認め、その書面の宛先に「鎌倉二階堂郷中 覚園寺 荏柄天神 瑞泉寺 泉寺西御門 宝戒寺 浄光明寺 ‥以上、六ヶ寺」などと記すなど、小田原征伐において当地の完全支配をもくろみ、調略の手を差し向けていたことが分かる。
江戸時代の二階堂の呼称
1644年(正保元年)に描かれた「正保国絵図」や、1697年(元禄十年)の「元禄内国改定図」などには「二階堂村」と書かれい申す。クァっ
以後は江戸時代後期(1867年/慶応3年)の村銘細書上帳の中に「十二所村、浄明寺村、西御門村と二階堂村」が大蔵ヶ谷の村々として、「谷合四ヶ村(やつあいよんかそん)(俗に”ヤツヤ”と呼ばれた)」と呼ばれた事実が記される。
また、十二所・浄明寺・二階堂は「谷合三ヶ村」とも言い、これらの村々は山仕事を共同に行うなど、相互扶助の関係にあった農山村だと記す。
なお、大正初頭の二階堂は40戸ほどの民家が存在したと云われる。(十二所は42戸、浄明寺は38戸)
明治時代の二階堂の呼称
1889年(明治二十二年)4月1日の市町村制以降は「東鎌倉村の大字」となる。
1894年(明治27年)7月7日に西鎌倉村と東鎌倉村が合併し、鎌倉町が発足した際には、その大字となる。
昭和時代の二階堂の呼称
1939年(昭和14年)11月3日、鎌倉町と腰越町が合併すると市制が施行され鎌倉市が発足する。これにより鎌倉市の大字(鎌倉市二階堂)となって現代に到る。
相模風土記稿によると、小名(小字のこと。住所には二階堂 字 〇〇(地名)と記される。/例:二階堂 字 杉ヶ谷)は杉ヶ谷、西ヶ谷、四ツ石小路、横小路、向荏柄、亀ヶ渕、稲葉越、杉本小路、熊野谷、紅葉ヶ谷などとする。
ところで‥‥「大字(おおあざ)」とは❓
大字(おおあざ)とは、明治時代および明治以前から踏襲される地名のことを云う。市町村合併後に発足した新自治体も、往時の村名を継承したもの。
例を挙げるとこの「二階堂」こそまさにがそれに該当する。(往時は二階堂村→現在は二階堂)
この大字の中の地域を便宜上(主に農地や集落を分かりやすくするため)、小分けした地域を「小字(こあざ)」もしくは単に「字(あざ)」と呼ぶ。
順番
県>市>区>町>大字>字>番地