永福寺跡【史跡】
読み方:永福寺(ようふくじ)※現在は跡地
創建年:1192年(建久三年)11月25日
発願者・開基:源頼朝卿
開山:不詳
宗派:不詳
造営責任者(永福寺):工藤行政(後の二階堂行政)、三善康信、藤原俊兼
史跡指定面積:約88,000平方メートル
永福寺の別名
鎌倉時代、永福寺は「二階堂」とも呼ばれた。
永福寺とは❓
永福寺とは鶴岡八幡宮寺、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)と共に源静香‥‥ではなく、源頼朝卿!!が鎌倉に建立した三大寺の1つ。ふぅ
現在は廃寺にして跡地が史跡として残る。
本尊、宗派(宗旨)、開山した人物ともに未詳とされる。うきゃ
永福寺の範囲
現在までの研究によると、往時の永福寺の範囲は次のように示される。
鎌倉宮の背後となる、小字 四ツ石、三堂、西ヶ谷、亀ヶ淵
永福寺の範囲による呼称の変化
現在、永福寺といえば跡地(史跡)全体を指す名称となるが、次のようなケースもある。
- 中央の本堂と、本堂に連なる南側の阿弥陀堂、北側の薬師堂、他、境内の諸堂塔ひっくるめて「永福寺」と呼ばれた。
- 中央の本堂のみを「永福寺(もしくは二階堂)」と呼ばれた。
例えば鏡の1244年(寛元二年)7月5日条によると、「永福寺ならびに両方の脇堂」の記載があるように、当時、本堂(二階堂)だけが「永福寺」と呼ばれていた様子がうかがえる。
永福寺(ようふくじ)が建造された理由(建立目的)
死者鎮魂と供養のため
一早い上洛を夢見る源頼朝の最大の障壁となったのが北方の伏竜・奥州藤原氏だったが、後白河院より追討の院宣が発せられ、罪人扱いとなった弟の義経が奥州・平泉へと逃亡したことを頼朝卿は知る。
これを好機とみた頼朝卿は藤原氏討滅の口実を得た。
1189年(文治五年)閏7月、頼朝卿は奥州藤原氏に対し義経を匿った罪を口上として院宣を獲得し宣戦布告する。自ら28万余もの大軍を率いて奥州征伐のため、北上する。(奥州合戦の始まり)
しクぁし!
老衰(病とも)によって秀衡、義経を自害に追い込んだ事により双刀を失った奥州藤原氏は家臣団の統制に歪みが生じ、頼朝卿率いる士気旺盛な鎌倉軍に圧倒されると、最期は家臣の河田次郎の造反によって当主・泰衡が討ち取られ、藤原氏は呆気なく滅んだ。
頼朝卿は奥州を手中に収めたが、この戦いは世に大戦と名づくほどの規模があり、数万にもおよぶ将兵たちの尊い命が失われたのだったが、その鎮魂のために建造されたのがこの永福寺と伝わる。
中尊寺二階大堂(大長寿院)の荘厳さを再現するため
頼朝卿は奥州平泉にて毛越寺(もうつうじ)や中尊寺(ちゅうそんじ)、無量光院(むりょうこういん)などの有り様を見て感嘆し、永福寺創建の発願に到ったと云われる。
中でもとりわけ衝撃を受けたのが中尊寺の二階大堂(大長寿院)だったと伝わる。
永福寺は毛越寺の円隆寺を模して建てられた❓
永福寺は通説では奥州平泉の中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模して再現する形で造営されたと伝わるが、これは二階堂の外観だけのこととされる。
実は二階大堂の本尊背後の後壁や、前面の扉には絵図が描かれていたとされ、それには色紙形が貼られていたとする。色紙形とは和歌、俳句、書画などを書く、方形の料紙のこと。
⬆️右鼻穴の鼻毛を3本同時に引っこ抜いた時ほどウワサの‥「色紙形(小倉山荘色紙形和歌)」 …どんな噂や(https://dl.ndl.go.jp)
色紙形を用いる意匠は毛越寺の円隆寺の壁画に見られるものであり、つまり、すべてが毛越寺を模した訳ではないという解釈が成り立つ。
なお、厳密には毛越寺の北側に位置する嘉祥寺(かしょうじ)の4つの壁と三面の扉に法華経二十八品をテーマとした極彩色の絵図が描かれており、色紙形の有無によっては嘉祥寺を模した説も浮上する。
また、南北両隣に脇堂を配する構図は毛越寺そのものとみられる。
しかしながら、毛越寺は西向きであるのに対し、永福寺は東向きに建造されてい‥‥ます。フェイント
現在の毛越寺境内図
鎌倉時代の毛越寺境内の様子(復元図)
画像は毛越寺公式より
ところで‥‥藤原季長とは❓
吾妻鏡の1192年(建久三年)10月29日条によると、画工修理少進(しゅうり しょうしん)・藤原季長という人物が、奥州・毛越寺の金堂(円隆寺)の壁画を模し、二階堂戸扉と仏背後の壁画を完成させたとある。
この藤原季長という人物は有史上に名前が現れず、その存在は謎につつまれてい申す。ナズォっ(”謎”を表現)
https://www.motsuji.or.jp(毛越寺公式サイト)
永福寺は鬼門封じのために建てられた⁉️
奥州平泉は位置的に八幡宮や大蔵御所、ひいては鎌倉の北東にあたる方角に位置する。
北東は古来、鬼門とされ、その鬼門と因縁深き奥州が重なることによって藤原氏の怨霊・怨念が大量に鎌倉へ流れ込み、災いをもたらすと考えた頼朝卿は永福寺を鬼門封じの要とすべく、大蔵御所や八幡宮の鬼門となる北東の地(現在地)を選んで建立に到ったとする見方もある。(吾妻鏡によると近くの荏柄天神社も鎌倉の鬼門封じと伝わる)
永福寺の創建
吾妻鏡によると、1189年(文治五年)12月9日、頼朝卿は事始めとして永福寺建立を発願(発案)する。
しかしながら実際に着工されたのはそれから約1年後の1192年(建久三年)正月21日だったと伝わるが、遅れた理由としては1190年(建久元年に奥州藤原氏の残党と称する「大河兼任の乱(おおかわ かねとう のらん)」が勃発するなど、奥州合戦の後始末に手間取ったことが挙げられる。
頼朝卿はくじけずに何クソっ❗️の不屈の精神での見事な立ち上がり具合を披露し、1191年(建久二年)2月15日、永福寺の建造場所として大倉ノ山辺り(大蔵御所周辺)を歴覧し、同日夕刻、ようやく当地に場所を決定したとある。
また、同日中に造営奉行が選出され、工藤行政(後の二階堂行政)、三善康信、藤原俊兼が補任された。
ところが、またしても工事は順風満風には立ち行かず、1191年(建久二年)3月4日、大倉御所にまで類焼を及ぼすほどの火事が発生し(御所は全焼)、永福寺建造どころではなくなった。
‥‥‥のだが❗️どうやら現場の立ち回り方が良かったらしく、大倉御所の再建工事と永福寺造営計画が同時並行で進められていたらしい。
造営の際し、犯土(ぼんど/平易に地鎮祭のこと)や営作(建築や土木工事)は北条義時を始めとした有力御家人衆も参画し、手足を汗と泥で汚した。
御堂の虹梁(こうりょう)や斗供(ときょう/組物)、垂木(たるき)組みの建築工事に際しては木材(用材)に重量があったことから、畠山重忠、佐貫広綱、城資茂、工藤行光、下河辺政義(しもこうべ まさよし)ら、怪力が自慢の御家人衆たちが参画し、同じく手足を汗と泥で汚した。(義時は音頭をとるなどハッスル役に徹していたらしい)
そして、またしても頼朝卿はくじけずに何クソっ❗️の不屈の精神での見事な立ち上がり具合を披露し、斯くして1192年(建久3年)11月25日、念願の本堂完工を迎え、落慶供養が執行された。ふぅ
永福寺造営を口実に頼朝暗殺を企てた者も出没す
永福寺造営は大勢の土工たちも参画したが、これらの人夫(労働者)は御家人たちが自領から抜擢てきてきテキーラ一気‥‥するほどの思いで連れてきた農民たちだった。….どんな思いや
‥‥ところがここで事件が勃発する。
工事が開始された1192年(建久三年)正月21日のこと、頼朝卿は視察のために工事現場へ足を運んだのだが、その中に左目が白く濁った土工がいるのに気づいた。
前述のように造営工事に携わる土工たちは御家人たちが自領から新鮮味た〜ぷりのプリぷりプリキュアなほどのイキの良さそうなクソ野郎どもを選んでいることから、仮に瞽(めくら)を装った人夫を連れてくるなどしたら、御家人と鎌倉殿との奉公の関係に背くことになり、咎に付されること覚悟の不忠きわまりなき行為だった。
不審に思った頼朝卿は梶原景時に命じ、あの男を自らの御前へ連れ出せと命じた。
頼朝卿は、景時が連れ出した男を見るや否や、脇に控えていた佐貫四郎大夫広綱へ何やら目線で合図を送った。
広綱は颯爽と立ち上がって男を捕縛し、男が懐(ふところ)に忍ばせていた一尺(約30㎝)ほどの打ち刀(打ち斬る刀)を取り上げた。
頼朝卿は続けて広綱へ男の左目を調べるように命じると、急に男が暴れた出したせいもあり、男の左目から魚のウロコらしきものが、ポロポロと地面に落ちた。男は男が瞽(めくら)を装っていたのである。
忿懣あらわにした頼朝卿は、瞽を装った理由を問いただすと男は観念しこぅ告げた。
『我は平家の侍大将・伊藤上総介忠清が嫡男・上総五郎兵衛尉忠光と申す者なり。』
この上総五郎兵衛尉忠光とは、頼朝卿の命を狙う有名な刺客の一人である平家残党の悪七兵衛 景清(あくしちびょうえ かげきよ)の兄でもある人物。
どうやら頼朝卿の命を付け狙って鎌倉中を数日うろついた挙句、瞽(めくら)を装って頼朝卿に近づこうとしたらしいが、頼朝卿と御家人衆たちとの間に結ばれた御恩と奉公の関係を知らなかったらっしぅぃ。
頼朝卿はすぐさま侍所の別当・和田義盛を呼び出して忠光を預け、他に協力者がいるか詰問するよう命じた。
‥‥と、以上の内容は吾妻鏡に記される内容とはなるが、この当時、頼朝卿の命をつけねらう平家の残党が後を絶たなかった世情が浮かぶ。
そんな中で開始されたのが、この永福寺造営事業だった事になる。
永福寺が二階堂に創建された理由
頼朝卿が奥州を手中に収める頃には鎌倉も基盤が安定し、次第に市中に人家が増えてきたと云われる。
頼朝卿は八幡宮や大蔵幕府の付近に永福寺を建立しようと計画していたとされるが、どうやら想像以上に永福寺の規模が大きくなることを加味し、人家が増えた市中を避け、当時は未開の地であった二階堂の地を選んだことになる。
なお、この頃にはまだ「二階堂」という地名はなかった。(二階堂の地名の由来を参照)
昭和の発掘調査で阿弥陀堂と薬師堂の存在が確認される!
1983年(昭和58年)より永福寺跡の発掘調査が開始され、以下のような遺構が発見された。
浄土庭園
北方から流下する谷川を水源とした、南北200メートル、東西40〜70メートルの苑池を中心とした浄土庭園の存在。
苑池の規模は奥州・毛越寺のそれを凌ぐと云われる。
浄土庭園とは、仏教の教理にある極楽浄土をイメージして作庭された庭園を云ぅ。 仏堂前面に蓮池を配置するのが特徴。(現在、永福寺跡では岩手県平泉町から寄贈された中尊寺ハスを育成中)
堂宇をそなえた大伽藍
上記、浄土庭園の西岸に二階大堂を中心とした南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊がそなわった壮大な伽藍の存在。
発掘調査の結果分かったこと
発掘調査の結果、建物は「中尊寺 大長寿院(二階大堂)」を再現しつつも、伽藍の構成は無量光院を再現したとみられてい‥‥‥申す。ピョ 最近ネタ切れ
湘南工科大学・長澤研究室作の永福寺と浄土庭園(CG画像)
永福寺跡の復元整備工事
永福寺跡は、昭和58年頃から平成8年頃までの間に中心地周辺の約15,800㎡を対象にした発掘調査が実施され、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂のほか、複廊、翼廊、釣殿、橋、庭園の存在や、その規模、配置が明らかにされた。
また、この調査により鎌倉時代に創建された寺院の中では有数の規模と寺観を誇る、当代きっての寺院であることも明らかにされる。
1967年(昭和43年)に史跡指定を受けるまで当地はススキの群落となり果てていたが、史跡指定の翌年度より整備計画が成ると公有化が進められ、2007年(平成19年)より、復元整備工事が着工される。
2017年(平成29年)6月に二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基礎部分の露出化と苑池の復元が完工し、一般公開されるに到る。
市や県としても今後、露出保存(史跡としての価値を損なわないような風化や劣化の抑制)が課題となってくると思われるが、現在の地面は頼朝卿や政子、歴代将軍たちが踏みしめた当時の地面ではなく、残念ながら厚さ60cmもの盛土をした地面となる模様。
また、池に関しては東側が公道のため復元ならずも暫定的に板柵で池を区切り、池自体も30cmかさ上げをして当時の池を保護しながら、庭石を当時の同じものを露出展示することで再現されてい‥‥‥申す。イクゥェっ(”池”を気合いを入れて表現)
これもひとえに遺跡を史跡として永久保存していくための処置となろぅもの。
なお、復元に使用された木材や石材は調査で発見された材質と同じものを新たに使用したとのこと。
永福寺再現3DCG画像
湘南工科大学 長澤研究室より提供
原寸大の永福寺がARで復元された!
2022年(令和4年)、NHK大河ドラマの放映を機に鎌倉では市が中心となって永福寺の再現計画が企画され、現在、永福寺跡では下記のようなVR‥ではなくAR画像が見られる。
左から阿弥陀堂、二階堂、薬師堂とその間に翼廊(よくろう)が備わる。
永福寺の想定境内図
画像は永福寺パンフレットより(発行:鎌倉市)
永福寺に関する歴史・年表
※以下、スクロール可能※
鎌倉時代
年月日 | 出来事 |
1189年(文治五年)7月19日 | 頼朝卿、自らが大軍を率い奥州征伐のために北征す。 |
1189年(文治五年)12月9日 | 永福寺造営計画が進行す。 |
1191年(建久二年)2月15日 | 寺地選定のため、頼朝、大倉山辺を歴覧す。伽藍草創の沙汰あり。 三善康信、二階堂行政らが奉行。 |
1192年(建久三年)1月21日 | 頼朝卿、二階堂の建設現場にて工事の様子を見る。 |
6月13日 | 梶原景時麾下の土工だった下野 皆河荘の旧領主・皆河権六太郎(木曽義仲の郎党)を景時の計らいに免じ、頼朝卿が赦免する。 |
8月20日 | 頼朝卿、造営現場にて監臨す。 |
8月27日 | 二階堂の地に初めて造池される。 頼朝卿、作庭家の静玄を京都より招聘し庭石の配置について相談するなど、庭園工事に熱意・興味津々の姿勢を見せる。 |
9月10日 | 頼朝卿、永福寺造営現場近くの工藤行政(二階堂行政)の館に逗留する。 |
9月11日 | 静玄の指示で造池された池に石を並べられる。怪力の畠山重忠が巨石を運んで石組みを配置す。 この石は高さ一丈(3m)の巨石だったと云われ、俗に「重忠の立石」とも呼ばれる。 |
10月23日 | 惣門が完成す。 |
10月29日 | 画工修理少進・藤原季長が二階堂戸扉と仏背後の壁画を完成させる。 奥州・毛越寺の金堂(円隆寺)の壁画を模す。 |
11月2日 | 永福寺落慶供養の祝賀を来月と定める。導師には三井寺(園城寺)の法務大僧正・公顕と決まる。 |
11月13日 | 頼朝卿、静玄を伴い、畠山重忠、佐貫広綱、大井実春の3人に命じて景石(庭石)の配置を変更させる。 |
11月25日 | 三井寺(園城寺)から公顕が予定より到着が早まり、永福寺の供養が厳修される。 御家人衆たちも総出の出席となる盛大なものだった。 |
年月日 | 出来事 |
1193年(建久四年)3月4日 | 当・永福寺を含め東国の大社寺8ヶ所にて後白河院の一周忌の法要が厳修される。 |
6月20日 | 鶴岡八幡宮、勝長寿院、当・永福寺の頼朝ゆかりの三大寺にて祈雨が挙行される。 |
11月27日 | 甲斐源氏・武田党の安田義資が儀式の最中に艶書(ラブレター💕)を女官に渡す。 翌日、義資は晒し首にされた。 |
1194年(建久五年)7月14日 | 薬師堂の上棟。 |
9月11日 | 宿直人が結番(当番表の完成)される。 |
10月13日 | 奈良東大寺より別当・勝賢僧正が薬師堂落慶供養の導師に決定する。 |
11月7日 | 薬師堂に扉が取り付けられる。 |
11月20日 | 施物などが京師より到着す。 |
12月2日 | 永福寺の寺社奉行が決定する。 二階堂(永福寺):三浦義澄、畠山重忠、義野房成尋 阿弥陀堂:中原親能、二階堂行政、少弐頼平 薬師堂:毛呂季光、三善康清、平盛時 |
12月26日 | 新造薬師堂の落慶供養を厳修す。導師は前述、東大寺別当の勝賢が担当す。 二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の三宇が揃う。 永福寺の工事はすべて完工し、永福寺が完成した年といえる。 |
1199年(正治元年)12月26日 | 頼家、永福寺でにて蹴鞠に惚ける。 |
正月13日 | 頼朝卿、53歳で亡くなる。 |
12月28日 | 梶原景時が鎌倉を追われる。 梶原ヶ谷の景時館は取り壊され、その廃材が永福寺の僧坊の建材として充てがわれる。 |
1200年(正治二年)閏2月29日 | 頼家が永福寺以下の名勝を歴覧す。 永福寺では頼家隣席のもと、郢曲(えいきょく/宮廷音楽)を奏じられ、釣殿にて酒宴に興じたとある。 |
1202年(建仁二年)3月14日 | 義光流の清和源氏・大内義信が亡き妻の供養のため境内に多宝塔を建献す。 導師に栄西律師を招聘し、多宝塔の供養が厳修された。政子と頼家も参列す。 義信の亡き妻は頼家の乳母。 比企能員の娘っ子にあたることから特別な計らいで多宝塔の寄進が許されたとみれる。 |
1209年(承元三年)10月 | 民部大夫狩野行光が永福寺内の一部に一伽藍を築き、一宇を建立す。 この日、供養したとある。(この伽藍と建物については未詳とされる) |
1211年(建暦元年)4月29日 | 実朝が時鳥(ほととぎす)の声を聞くために参詣するも聞けずに気を落として帰る。 |
11月3日(午前4時頃) | 火事により永福寺惣門と大内義信建立の塔婆一基が焼失す。 |
1212年(建歴二年)7月23日 | 惣門が再建される。(大内義信建立の塔婆は再建されず) |
1214年(建歴二年)3月9日 | 実朝が永福寺にて観桜(花見)のため夫人同伴で永福寺に参詣する。 |
1216年(建保五四年)8月19日 | 伊賀朝光追善供養のための塔が、娘っ子の伊賀ノ方および朝光の子息・伊賀光季・光宗によって建献される。 程ピチの娘っ子・伊賀ノ方が北条義時の妻だったので、これまた特別な計らいで寄進が許されたとみれる。うきゃ |
1217年(建保五年)12月25日 | 実朝が永福寺僧坊にて終夜歌会を催す。 |
1219年(承久元年)9月12日 (夕刻) | 浜辺から延焼した火が鎌倉市中に大火事をもたらし、永福寺惣門までもが罹災す。 |
1219年(承久元年)12月2日 (寅の刻) | 地震による火災にて永福寺内の僧坊を二、三軒焼失す。 |
年月日 | 出来事 |
1223年(貞応二年) | 海道記によると、源光行(みなもとのみつゆき/鎌倉幕府・政所の初代別当)が永福寺に参詣し、苑池を見て賞賛したとある。 |
1229年(寛喜元年)3月5日 | 頼経(4代将軍)が観桜のため参詣す。 |
1229年(寛喜元年)10月26日 | 頼経が参詣し、蹴鞠、歌会を催す。 |
1231年(寛喜三年)10月25日 (戌の四刻/午前9時30分) | 盗人の放火から大火へと発展し、惣門の内門が類焼す。 (この時、1212年に燃えた惣門はまだ再建されていなかった) |
1232年(嘉禎元年)11月29日 | 頼経が雪見するため釣殿へ昇殿し歌会を催す。 |
1235年(嘉禎元年)7月5日 | 1212年に再建された惣門の落慶式が厳修される。 |
1242年(仁治三年) | 当年に成立したとされる紀行文の「東関紀行(とうかんきこう)」の作者が永福寺へ参詣した折、感嘆のあまり次のような感想を述べてい‥‥ます。フぅ 『鳳(鳳凰?)の甍、日に輝き、 鳧(けり/野鴨の一種)の鐘霜にひびき(霜の降る夜、寒々と聞える鐘の声)、 楼台の荘厳よりはじめて、 林池のありとにいたるまで、殊に心とまりて見ゆ』 ‥‥と。 |
1244年(寛元二年)4月 | 永福寺および両方脇堂の修営が計画される。 |
7月 | 永福寺および両方脇堂の修営が着工される。 |
1245年(寛元三年)10月12日 | 頼経、如法経を永福寺奥山に納める。 |
1247年(宝治元年)6月5日 | 三浦の乱(三浦一族と北条氏一派との武力衝突)に際し、三浦光村(みうら みつむら)が惣門内に陣をかまえる。 |
1248年(宝治二年)2月5日 | 1244年に開始された永福寺および両方脇堂の修営工事の完成を急ぐよう下知された。 |
1249年(建長元年)11月23日 | 永福寺および両方脇堂の修営が、ようやく完了し、供養が厳修される。(北条九代記/関東評定衆伝 記) |
1251年(建長三年)3月10日 | 頼嗣(5代将軍)が永福寺に参詣し観桜す。 |
1251年(建長三年)10月7日 | 薬師堂ヶ谷が焼亡に到る。二階堂にまで延焼す。(鎌倉市史) 薬師堂ヶ谷とは現在の覚園寺の谷戸と見られる。 |
1260年(文応元年)2月18日 | 宗尊親王(むねたかしんのう/6代将軍)が参詣し、観桜す。 |
1280年(弘安三年)10月28日 (丑の刻/午前2時) | 鎌倉市中の大火により、二階堂まで類焼す。(北条九代記 記) |
1287年(弘安十年)8月24日 | 1280年に焼失した二階堂の修理供養が厳修される。 |
1310年(延慶三年)11月6日 | 安養院での失火が大火となり果て、永福寺境内の経蔵、二階堂大門、鐘楼などが焼亡す。(北条九代記・見聞私記 記) |
1333年(元弘三年)5月 | 北条氏が滅亡す。 滅亡後、足利義詮の嫡男・足利千寿王(あしかが せんじゅおう/後の室町幕府3代将軍)が永福寺の別当坊に逗留す。(梅松論 記) |
室町時代
年月日 | 出来事 |
1335年(建武二年)8月19日 | 足利尊氏が弟・直義とともに二階堂の別当坊(現・永福寺跡)に逗留し、賞罰を執行する。 |
1352年(文和元年)1月日 | 足利尊氏が二階堂の別当坊に逗留する。 |
1405年(応永十二年)12月17日 | 永福寺が炎上す。(鎌倉大日記 記) |
1454年頃に編纂された「鎌倉年中行事」の正月11日の項には「近代 永福寺 回禄(火災)以降‥‥」と記されたり、以後、再建が成ったことを意味する「吉書始(きっしょはじめ)/吉書という文例を総覧する年始行事のこと」の記述もないことから、どうやら室町時代になると過去の遺物となり果てた様子がうかがえる。 ”きっしょ〜”連発するヤツ、71%マザコン
永福寺跡の歴史
年月日 | 出来事 |
昭和6年から昭和8年までの間 | 考古学者の赤星直忠氏が発掘調査を行う。 |
昭和28年12月 | 県指定の史跡名勝に指定される。 |
昭和40年 | 北方の西ヶ谷で宅地造成があり学習院大学が発掘調査を行う。 同調査が完了後、史跡公園にする計画が浮上す。 |
えぇっ❓昭和時代に永福寺跡地に料理屋があった⁉️
昭和初年頃、現在の永福寺跡に料亭があったと伝わる。
この料亭についての詳細は不明。
永福寺の惣門はどこにあった❓
これまでの本ページを閲覧していく中で、幾度か「惣門」という言葉が登場したが、ではいったい永福寺の惣門とはどこにあったのか❓‥‥‥などと疑問が生じるところだが、実のところ、その確たる場所は判然としない。
ただ、鎌倉宮から永福寺へ至る途中に稲葉越橋があり、その橋へ通じる道角で四ツ石が見つかっており、この石が往時の永福寺惣門跡の遺物と見られてい‥‥申す。…….。…..。
毎度お馴染み❗️永福寺の石板(石碑)の内容
永福寺世ニ二階堂ト稱ス(称する)今ニ(今に)二階堂ナル地名
アルハ是ガタメナリ文治五年(1189年)頼朝奥州ヨリ凱
旋スルヤ彼ノ地(かのち/奥州平泉の中尊寺こと)大長壽院ノ二階堂(大長寿院の二階堂)ニ擬シテ(ぎして/真似て)之
ヲ建立ス輪奐(建物は大きく立派)壮厳(厳かで美麗)洵ニ(まこと/本当に)無雙(無双/並ぶものない)ノ大伽藍タリキト
云フ享徳年間(1452年から1455年までの期間)関東管領ノ歿落(没落)セル頃ヨリ後全
ク頽廃(たいはい/廃れる)大正九年三月建之 鎌倉町青年會
この石板の内容によると享徳年間(1452年から1455年までの期間)に関東管領(上杉家)が没落した頃より、当地は荒廃したとある。
現在までの通説では1438年(永享10年)の 永享の乱(えいきょうのらん)にて敗死した鎌倉公方・足利持氏の遺児・足利成氏(あしかがしげうじ)が、鎌倉府滅亡によって是非も無く鎌倉を去り、下総・古河(現・茨城県古河市)へ移って初代 古河公方を名乗った頃より、当地の荒廃が始まったとする見解もある。
それ以後、当地には手が加えられず、近代にまで及んだことになる。
おそらく昭和6年から昭和8年までの間に赤星氏が発掘調査を開始するまでは荒廃しつづけたままだったのだろぅ。当地が発掘調査が行われるまでススキの群落になり果てたというのも時代の栄枯盛衰、その儚さを感じる。
まさにぅぃ❗️「つわもの(兵)どもが夢の跡」。
太閤秀吉が残した辞世の一言にある、『露と落ち 露と消えにしわが身かな なにわのことも 夢のまた夢』‥‥‥のような言葉が見事に当てはまる気さえする。
【史跡】永福寺跡の場所(地図)
鶴岡八幡宮の東門(東鳥居)から大蔵幕府跡を経て頼朝卿の墓、永福寺と歩いて行く頼朝歴史満喫コースもおすすめ💘
途中には荏柄天神や鎌倉宮もある。
永福寺の東奥には書院庭園の起源と目される禅宗様庭園を有する瑞泉寺(ずいせんじ)が控える。