畠山重保邸跡の場所や歴史を…知りたぃ❓|鎌倉市 若宮大路

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畠山重保邸跡とは❓

当地には鎌倉幕府の御家人衆であった畠山重保の居館が建っていたと伝わる。

畠山重保は1205年(元久二年)6月22日の寅の刻(午前4時頃)、当地周辺が騒がしくなり、声のする由比ヶ浜へ行く。

由比ヶ浜で待ち受けていたのは時政の畠山父子謀殺の密命を受けていた三浦義村率いる三浦党であり、義村によって討ち取られる。

当日の夕方、親父の重忠も現在の武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)にて北条義時の迎撃に遭い、戦死した。

それゆえ当地は後世に伝わる「畠山重忠の乱」の先駆けの舞台ともなる場所。

ちなみに親父の重忠の居館は鶴岡八幡宮の東鳥居(東出入口の前)あたり建っており、当地に「畠山重忠邸跡」として毎度おなじみの鎌倉青年団の石碑が佇む。


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毎度おなじみ❗️鎌倉青年団の畠山重保邸跡 石碑の内容

畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ嘗テ(かつて)北條時政
ノ壻(むこ)平賀朝雅ト忿争ス(争った)朝雅其ノ餘怨(余怨/よえん/消えぬ恨み)ヲ蓄ヘ(たくわえ へ)
重保父子ヲ時政ニ讒ス(ざんす/讒言する/謀る)時政モト重忠ガ頼朝
ノ薨後(みまかった後)其ノ遺言ニ依リ 頼家ヲ保護スルヲ見
テ之ヲ忌ミ 事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス 乃
チ(すなわち)實朝(実朝※3代将軍)ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍
ム(囲む)重保奮闘之ニ死ス時ニ元久二年(1205年)六月二十
二日 此ノ地即チ其ノ邸阯ナリ 其ノ翌 重忠亦(同じく)
偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス

大正十一年三月建 鎌倉町青年團

畠山重保邸跡の様子

名もなき庚申像

ほんま名もなき庚申像‥‥やけど、これ木造やね。木彫り。

‥‥‥誰が置いたの❓

見猿(見ざる)がいない。

庚申信仰は江戸期に爆発的に広まったが‥‥。みたところそれほど年代を感じないので比較的、近世に制作されたものとみられる。

石造地蔵菩薩蔵

もはや定番のお地蔵さん。下掲画像のお地蔵さんは光背部分に「宝暦十‥」と見えることから、補作されていなければ1760年に造立されたことになる。

 

こちらの地蔵は風化が著しく、陰刻がよく見えない。

なんじゃごりぃぃや‼️

なんじゃごりぃぃや!! 後ろにホウキとチリトリがある。…だからどうした

室町時代に足利義満が腰掛けたとされる好状態の「未来ベンチ」

画像左下に見える木製と思わしき、思わずキャンプをしたくなってくるようなベンチ。

このベンチこそ!かの足利義満が腰掛けてハト麦茶をガブ飲みしたと伝わるベンチにな‥‥‥るかぃ❗️なんでやねん

畠山重保邸跡の裏側の様子

畠山重保邸跡の裏側はMどうやらションマン(業界用語 訳:マンション)。 業界用語? 勝手に決めんな

車が一台木陰に駐められてい申す。チャっ

ここに畠山六郎の居館があったのだろうかぁ カァカァ

宝篋印塔(伝・畠山六郎重保の墓)

どうやら畠山重保邸跡には畠山六郎重保を偲んでか、供養塔、つまり墓が築かれたようである。

その六郎の墓こそが当地にて一際目立つ、宝篋印塔になるとのこと。

宝篋印塔については下記ページを参照💘

畠山重保邸跡の場所(地図)

  • 所在地:鎌倉市由比ヶ浜2丁目14-5

若宮大路通り沿い、一の鳥居付近に佇む。

鎌倉駅から徒歩約10分。

畠山重保の墓もお忘れなく❗️

当地には他に畠山重保を供養するための「畠山重保の墓」もある。

畠山重保の墓は、全国有数の室町初期の様式で造立された宝篋印塔であり、鎌倉市有形文化財の指定を受ける。うきゃ

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