【寿福寺裏山の北条政子の墓】歴史や造りを….コチョバされながら知るつもりぃ❓|鎌倉市 扇ケ谷

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伝・北条政子の墓

  • 造立年:未詳(通説では鎌倉末期頃〜南北朝期頃と推定される)
  • 高さ(総高):126.5㎝
  • 暮石材質:安山岩製
  • 建てた人物:未詳

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北条政子の墓(五輪塔)の歴史

様々な資料において豊胸政‥‥‥ではなく、「北条政子」!!の墓と記されるが、はぉっ 現在までの調査によれば、その確証が得られておらず、必ずしも当墓が北条政子のものとは限らない。ハひゃひゃ

すなわち、伝承の域を出ないということになる。

北条政子の墓のディティール

北条政子の五輪塔は一具(同一)の石材を以ってして造立されたワケではなく、特に「火輪」の部分は別塔のものをハメ込んだと伝わる。

「火輪」とはどの部分?

火輪とは塔の上から三段目の石コロころころドコいった‥‥のこと。 なんやそれ

⬆️塩と間違えてご飯に砂糖かけ倒してパクっ!とした瞬間の即、吐き具合ほど噂の‥‥‥「五輪塔図」※画像はWeblio辞書より

また、各輪の曲線形状に見られる違和感や、比率が一致しないことから、一説に各輪の時代が異なるとも云われる。

以下に政子の墓(五輪塔)の拡大画像を掲載してみよぅ。

‥‥‥いかがだろぅか。

空輪部分(たまねぎ剣士の先っちょ❤️の部分)の赤いペイントが気になった諸君!おそらく63%水虫。

‥‥‥とまぁ、冗談はこのへんにして、ちょぃと空輪・風輪とその下の火輪に注目してもらいたぅぃ。

空輪&風輪と火輪を見比べると、射光の度合い関係なく明らかに色合いや劣化具合が異なることが分かる。

同様に火輪と水輪&地輪を比較してみてもその違いが分かる。

空輪と風輪、水輪と地輪は、それぞれは見た感じ同時代の石コロころころ‥‥もぅエエわぃ!‥‥‥かと思われるが、例えば空輪と地輪とを比較すると、これまた色合いや形状に違和感が残る。


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江戸時代には「画窟(えかきやぐら)」&「からくさやぐら(唐草やぐら)」と呼ばれた

江戸期編纂の地誌によると、当時の政子の墓は「二位禅尼塔」と記され、さらにぅぃ、寿福寺裏山に造成された「画窟(えかきやぐら)」or「からくさやぐら(唐草やぐら)」と呼ばれる、やぐらの中に実朝の墓(五輪塔)と共に納置されていたとのこと。

あくまでも江戸時代に墨書きされた図絵に大雑把に記されるのみであるから、実際に実朝の墓や政子の墓が現在地に在ったとは限らない。

しかしながら、政子の墓横の”やぐら”に納置される実朝の墓(五輪塔)の内壁や床には唐草模様のような紋様が見られるが‥‥‥はてさて。

あとは各人の想像に拠るところと言ったところか。ウぎゃぎゃぎゃ

⬆️あっかんべ〜しまくってヨダレ出まくってススった瞬間ほど噂の‥‥‥「実朝の墓(五輪塔)」周囲の凹凸が唐草模様に‥‥

江戸期編纂の新編鎌倉誌には北条政子の墓の記述は無し!

水戸黄門で有名な水戸光圀が家臣の河井恒久(かわいつねひさ)に編纂させた「新編鎌倉誌(しんぺんかまくらし)」には、前述の実朝の画窟(えかきやぐら)ならびに、「如実妙観」と書かれた北条政子の位牌については記される。

しクぁし!

北条政子の墓所についての記述は一切ない。

ところが「鎌倉攬勝考」には次のような記述がみられる。

鎌倉攬勝考に記される北条政子の墓の場所

鎌倉攬勝考(かまくららんこうしょう)とは、八王子の武士・植田孟縉(うえだもうしん)が著したとされる鎌倉地誌になる。

この鎌倉攬勝考には‥

『右府実朝将軍の御廟なりといひ、相並て一ヶ所は二位禅尼(政子)の御廟なりといふ。‥‥(省略)』
『御分骨を葬りしことにやあらん』

新編鎌倉誌は1685年(貞享二年)に編纂されており、鎌倉攬勝考は1829年(文政十二年)に編纂された。

新編鎌倉誌には政子の墓の記述が無い。‥‥にも関わらず鎌倉攬勝考にはシッカリかりかりカリフラワーの生い茂り具合の如くに政子の墓の記述がある。どゆ意味や

‥ということは1685年(貞享二年)〜1829年(文政十二年)の約140年の間に政子の墓が建てられた、もしくは江戸時代後期に荒廃していた当地を整備し直し、現在見られるような政子の墓と実朝の墓とを一緒に洞穴(やぐら)に納置したという見解も成り立つ。

北条政子は寿福寺の開基!

当墓の麓には鎌倉五山・第三位の寺格を有する寿福寺(じゅふくじ)が建つが、政子は寿福寺の開基となる。

政子は頼朝卿の一周忌に栄西を導師として招聘し、寿福寺を創建した。それゆえ寿福寺の開山は栄西とされる。

実朝はこの栄西に深く帰依し、開基である政子の実子とだけあって寿福寺とも因縁が深ぅぃ。

もう1つあった❓北条政子の墓

実は当地の他にももう1基、北条政子の墓がある。

厳密には墓ではなく宝篋印塔(供養塔)とはなるが、この供養塔は鎌倉市大町に位置する安養院(あんよういん)の裏手にある。

ただ、塔の格狭間(こうざま)に見える「妙観」が水戸光圀編纂の諸家系図纂に掲載される事実であることや、安養院は鎌倉時代、当地には無かった(長谷観音の前にあった)ことから、本塔は江戸時代初期に建てられたと推定されてい‥‥‥申す。ホゲェっ

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