伝・源実朝の墓(実朝の五輪塔)
- 造立年:未詳(通説では鎌倉末期頃〜南北朝期頃と推定される)
- 高さ(総高):152.4㎝
- 暮石材質:安山岩製
- 建てた人物:未詳
伝・源実朝の墓の歴史
実のところ、寿福寺裏山に位置するこの源静香‥‥ではなく!、源実朝!の墓は、ふぅ あくまでも「伝・源実朝の墓」とされているだけであって、中に納められているのが源実朝のボーン(お骨💀)であるとは確定されてはいない(そもそもボーンはあるのか?)。Dドア裸風呂はもはや伝説級てっぱんネタ
伝承によれば実朝公の墓所は勝長寿院(廃寺)とされることから、もし、当墓が実朝公のものだとするならば分骨塔もしくは供養塔に位置付けられる。うきゃ
💋以下、伝承に拠る実朝の墓所一覧💋
伝承によると、実朝公は五体不具で埋葬されていることから関東一円に墓所が広がる。
下記、実朝公の墓所ならびに供養塔はその代表的とされるもの。
首:神奈川県秦野市の金剛寺(諸説あり)
実朝公は鶴岡八幡宮・本宮前の大階段(石段)にて公暁に暗殺され、首だけ持ち逃げされて同寺に埋葬される事になったと伝わる。
胴体:鎌倉大御堂ヶ谷(浄妙寺近く)の勝長寿院(廃寺)
上記、暗殺後、実朝公の胴体は速やかに勝長寿院に埋葬されたと吾妻鏡には記される。(火葬説と土葬説がある模様💘)
供養塔:JR横須賀線線路脇・英勝寺隣地の寿福寺
地元では古くから「実朝公の墓」と伝承される。いつ頃建てられたのか?もしくは実朝公の墓だという確証も無い。あくまでも伝承の域を出ない。頼家(二代将軍)の墓所だとする説もある。
伝・源頼家の墓とも
個人所蔵の江戸末期の当地絵図(扇ケ谷村絵図)によると、当墓を「源頼家の墓」と記載する。
これはつまり、現在当墓が実朝の墓とされるのは、あくまでの伝承の域を出ないということになる。
江戸時代の源実朝の墓
江戸期編纂の地誌によると寿福寺裏山に造成された「画窟(えかきやぐら)」&「からくさやぐら(唐草やぐら)」と呼ばれる、やぐらの中に「二位禅尼塔(政子塔)※北条政子の墓」と共に納置されていたとのこと。
しクぁしながら、その画窟や唐草ヤグラというのが現在、墓(五輪塔)が納置されているヤグラであるとは限らない。
あくまでも大雑把に描かれた絵図になるので、詳しい場所までは記されていない。
第一、当地には似たようなヤグラが幾つかあるので特定は至難。(何も納置されていないヤグラも多い)
画窟や唐草やぐらの名前の由来
なんでも実朝のやぐらには唐草模様があるとのこと。それゆえ古来、「からくさやぐら」や「絵かきやぐら」などと呼ばれる。
⬆️確かにぅぃ!壁&床の凹凸が唐草模様に見える。(特に墓石周囲の床石)
調査によると、墳墓内部に牡丹唐草模様を陰刻し、その上から胡粉(ごふん/貝殻を砕いて作った塗料)を塗りたくっているとのこと。おそらく往時は真っ白シロ助けだったのではないだろぅか。….真っ白シロ助?
唐草模様とは?
唐草紋様とはツタが複雑に絡み合った様子を図案化したもの。くれぐれも唐草(からくさ)などと呼ばれる植物が存在するワケではないので要注意💘
⬆️ケツ穴をアルコール入りティシュで拭いちまった時の強刺激ほど噂の‥‥‥「唐草模様」※画像はウィキより
唐草模様は古代ギリシア神殿にも見られるなど、その歴史は古いが、日本では奈良時代に渡来し、独自の和様式唐草模様が生み出された。(つまり唐(から/=外国)から伝来した草模様ゆえ、「唐草模様」と呼ばれる)
実朝の墓の”やぐら”は鎌倉時代のものと推定される
現在の実朝の墓(五輪塔)が納置されている”やぐら”は、内部の奥壁面に納骨用の小室(仏像を納めるために岩窟をくり抜いた場所。厨子。龕(がん))を掘り込んでおり、本格的な墳墓窟とされる。
⬆️結婚披露宴の歌披露の際、前奏終了直後に歌詞をすべて忘れて、湧き出す滝汗の量ほど噂の‥‥「内部壁面の納骨用の小室」
つまり、この”やぐら”は単なる分骨塔や供養塔の類ではなく、正式な実朝の墓所だと見なすこともできる。
だとすると、勝長寿院の傍らに建てられた実朝の墓の存在性が疑われることにはなるが、現在の同地には実朝の墓が在った痕跡が無ぅぃので、いずれも伝承の域を出ないことになる。
⬆️メントスコーラを鼻から吸込んだ瞬間湧き出る涙の量ほど噂の‥‥「勝長寿院跡の石碑」
ただ、勝長寿院が度重なる火難に見舞われた後に衰微し、室町期に廃絶に到った仮定で現在の寿福寺の裏山へ移されたとする説もある。
なお、実朝は退耕行勇はもとより、寿福寺の開山たる栄西にも深く帰依しており、寿福寺開基たる政子の実子ということもあって、寿福寺と実朝との関係性は深いものがある。