神奈川県秦野市(東田原1116)の大聖山・金剛寺(こんごうじ)境内にも「実朝の墓(木造の五輪塔なので「実朝塔」とも)」が建つ。
源実朝公の首塚【秦野市指定 重要文化財】
秦野市重文指定年月日:1971年(昭和46年)7月26日指定
実朝の首塚の歴史
新編相模国風土記の記述
新編相模国風土記(1841年/天保十二年に編纂)によると、1219年(承久元年)正月27日夜、鶴岡八幡宮本宮前の石段(大階段)にて三代将軍・実朝を暗殺した実朝の兄にあたる頼家(よりいえ二代将軍)の遺子・公暁(くぎょう/こうぎょう)は、実朝の首を首級(しゅきゅう)として持ち逃げたが、武常晴(たけ つねはる/三浦氏一族)が偶然にも実朝の首を見つけ、栄西(えいさい/ようさい)の弟子である退耕行勇(たいこうぎょうゆう)に請いて村内(波多野荘)に実朝の首を葬った。
その折、実朝の法号たる「金剛寺殿」を冠して「金剛寺」という寺院を草創し、退耕行勇を開山、源静‥‥、源実朝!を開基とす。…カロリーメイト食べよ
実朝公の首は塚を築いて埋葬し、その上に木造 五輪塔を建立し、その印(首塚)とす。
その後、この木塔は金剛寺境内の阿弥陀堂に移され、首塚には現在の石塔を建てたと伝える。
この阿弥陀堂の木造五輪塔は実朝公33回忌の折、石造五輪塔に交換され、木造五輪塔は現在、鎌倉国宝館に寄託・展示。
東鑑に見える実朝の首について
公暁、実朝を討ちてその首を持って後見の僧(備中阿闍梨)の雪ノ下北谷の宅へ入り、繕を羞むる間(料理を食べる間)も手にその首を放さず持つ。
28日に執行された実朝の葬儀の折、「首の行方知れず」‥として宮内兵衛尉公氏に賜りし髻(もとどり※実朝の髻)を首の代用とした。(宮内兵衛尉公氏とは実朝の近習(世話役)のこと。右大臣拝賀式典の折、実朝の整髪していたところ、実朝自身から記念にと髻の一部(髪の束)を与えられた)
実朝は荼毘に付された(火葬)上で勝長寿院の傍に埋葬されたことが記される。(土葬とも)
愚管抄に見える実朝の首について
愚管抄の巻第六には次のような記述がある。
『実朝が頸は岡山の雪の中より、求め出たりけり。』
この一文を解釈すると実朝の首級は鶴岡八幡宮後方にそびえる岡山(大臣山)に降り積もる雪の中から求め出された(見つけ出された)ことになる。
ちなみに大臣山は現在、一般禁足地であり、こと明治時代に到っては明治天皇が陸軍野外演習をした場所としても知られる。(現在、その記念碑がある)
実朝の首塚は金剛寺境内より約400m南下した地に建つ
⬆️実朝の首塚は金剛寺境内より約400m南下した地(田原ふるさと公園の一角)にある
金剛寺蔵「木造五輪塔」
- 建造時期:鎌倉時代
- 高さ:総高154.9㎝
※首塚を飾っていたと伝えられる本・五輪木塔は現在、鎌倉国宝館に収蔵される。
木造の五輪塔は国内でもそれほど類例が見られず、現存するほとんどの五輪塔は石造になる。ちなみに木造五輪塔の最古は1281年(弘安四年)に造立された東大寺・持国天像(重文)胎内塔とされてきた。
しクぁし!2010年3月に京都市左京区久多の志古淵神社(しこぶちしゃ)にて、「平治元(1159)年/平安時代末期」銘の木造五輪塔が発見され、国内最古の木造五輪塔となった。(2012年3月に京都市指定文化財指定)
実朝の首塚の看板の内容
秦野市指定史跡 源実朝公御首塚
昭和四十六年七月二十六日指定
源実朝公御首塚ここは若くして非業の最期を遂げた鎌倉幕府三代将軍・源実朝の首塚と伝えられている。
実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の子として生まれ、建仁三年(1203年)2月に12歳で鎌倉幕府三代将軍となり、建保六年(1218年)12月、武士として初めて右大臣となった人物である。
実朝は、建保七年(1219年)正月27日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際に、二代将軍頼家の子、公暁により命を奪われた。
「吾妻鏡」には首のないまま埋葬されたと記されており、首を持ち去った公暁が討たれたのち首の行方については一切触れられていない。
多くの謎の残る事件であるが「新編相模風土記稿」(1841年)の東田原村の項に「源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建り 承久元年(1219年)武常晴 実朝の首級を当所に持来り」という記述がある。
この武常晴は、三浦半島地域を本拠地とした御家人、三浦氏の家臣であり、のちに一族は現在の当市寺山に移り住んだといわれている。
なお、ここからほど近い金剛寺には源実朝像が安置されている。
実朝はまた歌人としても名高く、私家集に『金塊和歌集』がある。
歌碑に刻まれた和歌はそれに収められた一首であり、近代を代表する歌人のひとりである佐佐木信綱の筆によるものである。
ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子をおもふ
秦野市教育委員会
なぜ、三浦義村の直臣であり、後に三浦一族となる武常晴は犬猿の仲である波多野を頼ったのか❓
考えてみると武常晴は三浦義村の直臣であり、その三浦と波多野は仲が悪いことで知られてい‥‥‥申す。アヒャっ
なぜ敢えて仲の悪い波多野を頼ったのか❓
この理由は未詳とされるが、岡山(大臣山)で偶然に見つけたのが実朝の首とだけあって事の重大さに驚いたばかりではなく、自分の置かれた立場を悟った上での焦燥感と危機感が彼を遠く秦野の地へ走らせたのだろぅか。
だがしクぁし!‥‥なぜ秦野でなければならかったのか?(鎌倉の東は北条方の所領が点在していたからか)
なお、これについて以下のような看板も立てられているので紹介しておこぅと思ふ。
源実朝公首塚碑
※看板の文字が風食により擦れているため部分的に抜けあり※
建保六年(一二一八年)二月 征夷大将軍源実朝公は右大臣となり、翌承久元年正月二十七日 鶴岡八幡宮で拝賀の儀式を挙げた。
式が終わって石段を下ろうとした時、賊が闇の中から跳り出て公を殺害し その首をもって逃げ去った。
二十八日、公を勝長寿院近くに代わりに葬ったが、その際、近臣の公民に与えた髻(髪の毛)を首の代わりとして埋葬した。
前日の夕方 三浦義村に賊の追討の命を受けて、これを討ち果たした。
義村の家人が前公のおそばに仕えた武常晴という者が公の首を賊から奪い、大住郡田原村に来て埋葬した。
これがその首塚である。
おそらく三浦氏の友党の波多野忠経が昔からこの地に居たので頼ってきたのであろぅ。
のち忠経は塚の近くに金剛寺をつくり、この冥福を祈った。寺には今も公の木像と念持仏があると云う。
ふり返って往時を考えると公はすぐれた天性をもって右大将頼朝の偉業をうけつぎ、皇室を尊とび民生の安定に心を砕き質実剛健を肝として研鑽を重ねつづけた。
まことに才能豊かな英君であった。
ただ一族が互いに分かれて利を争い、種々画策して立家を衰えさせたのである。
とりわけ公の剛直な気性を嫌って、ひそかに凶賊をそそのかし、公を殺害させたのである。
七百年の歳月は流れて塚は大変荒廃した。
最近村民や志を同じくする人たちが、その消滅してしまうことを懸念して修理計画を立て、石垣を周囲に造ったり、新しく鳥居を建てたり、参道を開いて参拝者の便を図った。
工事が完成し、事業の経過や趣意を碑に刻みたいといって、人を通じて碑文の作製を私に依頼して来た。
思うに偉人の名蹟を世にあらわすことも人心を引き立て、人情笑風を厚くすることになるわけである。
よって文を草して与える次第である。
大正八年 三月九日
神奈川県知事 正四位勲二等 有吉忠一 猪瀬博愛書
秦野市観光協会 昭和五十六年三月
本当に”波多野氏”が現在の”秦野市”を根拠地としていたのか❓
2000年(平成12年)9月に実施された同地周辺の実地調査によると、驚くことに鎌倉時代の領主の館跡とみられる遺構が発見されたとのこと。
検出された遺構は前後2期に分けることができると考えられており、前期の遺構は掘立柱建造物が7棟、後期の遺構は掘立柱建造物が14棟、出土。
建物周辺からはカワラケが多く出土しており、中には稀少とされる白色のカワラケも発見されたとのこと。
カワラケは儀式や宴で用いられた当時でいうところの高級品にあたり、他に同地では中国製の青磁器・白磁の破片なども発見されていることから、当時、権力や財力を有した豪族が住んでいたと見られてい‥‥‥申す。カっ
鎌倉時代に権力や財力を持つことができた人物となると、真っ先に思い浮かぶのが幕府に奉仕した御家人の存在。
以上、これらの事実を照応させると当地には波多野一族の館が建ち並び、その周辺一帯を支配していたと想定されてい‥‥‥申す。ハタピャっ(”波多野”を超・現代風に表現) なんやそれ
実朝公の歌碑
同地には他に実朝公の歌詠みの才を偲ぶ歌碑が建立されており、この歌碑に陰刻されるのは金槐和歌集(きんかいわかしゅう)の中の一首となる。
『物いはぬ 四方(よも)のけだものすらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ』
この碑の揮毫者は実朝公の研究家でもある佐佐木信綱その人。
この歌碑は秦野郷郷土文化会と秦野短歌会の共同企画によって昭和三十五年(1960年)に秦野市が建立したもの。(秦野市 観光振興課)