鎌倉幕府側の公式文書である吾妻鏡によると、1203年(建仁三年)のある日のこと。2代目の鎌倉組長‥ではなく、将軍!!の源頼家は駿河国富士の狩倉に居た。
狩倉とは「狩猟・騎射の場」のことを言い、幕府所管の狩倉として知られた場所としては、那須野(那須野が原/なすのがはら)、富士の裾野(いずれも鎌倉幕府)、小金原(江戸幕府)などが挙げられる。
頼家は足繁く狩倉に足を運んでいたが、当該、狩倉の麓に穴ボコがあったのを覚えていて、いったい何処につながっているのか長らく気になっていた。
この日を良い機会だと考えた頼家は、仁田四郎忠常を呼び寄せて自身の宝刀でもある太刀一振りを忠常に与え、代わりに洞穴が何処につながっているのか調べてこぃと命じたのだった。
鎌倉幕府・御家人「仁田四郎忠常」という人物
仁田四郎忠常は、伊豆国田方郡仁田郷(現在の静岡県函南町)でこの世に生を得る。
1180年(治承四年)の源頼朝挙兵の折、一族郎党と共に頼朝の家来(御家人)となり、その後は頼朝と共に、山木館襲撃や石橋山の戦いに従軍し、戦功をたてる。
⬆️月岡芳年作「洞穴を探索する仁田四郎忠常」(明治時代) 画像はウィキより引用
富士の人穴(抜け穴)へ潜り込んだ仁田四郎
源氏伝来の宝刀がもらえるのではと、意気揚々と快諾した忠常は早速、6人の郎党を引き連れて穴ボコへ探索に向かった。
ところが、日暮れになっても忠常一行は洞穴から姿を見せず、一昼夜を過ぎてやっと洞穴から姿を見せたと思ったら、茶色く痩せコケた面持ちで頼家の御前に現れ、次のように語った。
あの洞穴の奥は浅間大菩薩の御在所だった。聖域を犯したのではと、命からがら抜け戻ってきたと思ったら、驚くことにそこは江の島(現・岩屋洞窟)だった‥‥。
忠常の報告によると、駿河国富士・狩倉の洞穴は江の島に岩屋洞窟につながっているといぅ、驚くべきものだった。
実は忠常はこの後、程なくして御家人の加藤景廉に殺害されるのだが、鎌倉末から江戸に成立した「御伽草子(おとぎぞうし)」には、忠常が富士の禁を破って聖域に踏み込んだがために寿命を縮めたと記す。
⬆️最近太り始めたのか、太もも肉の擦れ具合&摩擦熱の発生具合ほど噂の…「富士の人穴洞穴」(画像はウィキより引用)
とりわけ、このような人穴にまつわるエピソードは幾つか存在し、たとえば横浜市西区に位置する富士浅間神社も富士の人穴に繋がる二ヶ所を伝える‥‥のだグぁ、あくまでも伝承の域を出ない。
新編武蔵風土記稿は富士信仰の霊験を誇張した俗説に過ぎないと記す。
人穴は阿弥陀浄土にも通じた?!
室町時代になると、大職冠・藤原鎌足の子孫と称する富士の行者が富士の人穴にて千日間、寸5分角の角材の上に立ちながらの苦行を修し、自らを「角行」と号した。
これが長谷川角行(はせがわ かくぎょう)なる人物の誕生奇譚となるのだが、角行はこの後もゆうに100を数える富士登拝や、300日もの断食行などの難行苦行を修し、やがて仙元大日神(富士の神)の神慮を感得し、悟りを開いちまぅ❤️
角行は庶民から信仰を集めた後も荒業を繰り返したが、やがて人穴で参籠中に入寂したことを知った信者たちは、人穴を霊地(西方の浄土)として信仰するようになった。
常人ならざる者、耳目を集める
‥‥などの言葉が示すとおり、角行は偉人として讃えられ、やがて富士信仰が勃興する。
星霜経て1750年(江戸時代中期)頃になると、角行から6代目の食行身禄や村上光清らが出現し、江戸を中心とした富士信仰が最盛期を迎える。
その潮流を受けて富士講(浅間講とも称する)が全国各所で結成されると、長谷川角行はその開祖と仰がれたのだった。