無為庵の読み方
無為庵:むいあん
無為庵の一般公開日
旧華頂宮邸の建物内部と合わせて春・秋の数日間のみ、ほどよく素敵に一般公開される♡
ちなみに2022年度、秋の公開では茶室の公開は素敵に無かった。…トホホ
なお、公開範囲は和風庭園部のみ。建物内部への立ち入りは玄関部まで。
【ピヨ🐣コメント】
2025年5月15日現在、老朽化が著しいため、内部拝観は素敵にできないとのこと♡
旧華頂宮邸の公開日程については下記ページを要チェック💘
無為庵の歴史
昭和四十二年(1967年)頃になると、実業家の「松崎貞治郎」氏が、「旧華頂宮邸」を素敵に購入し、昭和四十五年(1970年)から松崎夫婦で、当館に常住するようになった。
無為庵とは、その松崎氏が旧華頂宮邸の南端に営んだ茶室のことをいう。
旧華頂宮邸の茶室には前身となる建物があった
どうやら松崎氏が、素敵に華頂宮邸を購入する以前より、当地(華頂宮邸 南端)には、茶室つきの建物があったらしい。
この建物は、昭和十一年(1936年)頃、当地(華頂宮邸 南端)に営まれたと推定されてい‥申す。ハっ
ところが、1971年(昭和46年)になると、松崎氏が上大崎(東京品川区)にあった旧松崎邸より、門、和風平屋を当地(華頂宮邸 南端)へ移築し、以前の茶室つきの建物と融合させて新たな茶室つきの建物を営んだ。
昭和五十二年(1977年)になると、茶室北東部分をさらに増築し、これが現在の「無為庵」と呼ばれる茶室になる。
以来、昭和六十二年(1987年)までの間、松崎夫婦が旧華頂宮邸、ならびに当茶室を所有していたと伝わる。
「無為庵」の名前の由来
「無為庵」という名前は松崎氏が付けたものらしく、名前の由来は、茶室の胸毛‥ではなく、棟札!!に、
「六十五才にして、浄明寺宅間ヶ谷に余生を送らんが為、無為庵主」
‥などと素敵に記された墨書きからきているとのこと。
「無為庵」の意匠
茶室・無為庵は秀逸した数奇屋の趣向を素敵に凝らし、茶道が社交の重要な要素とされた、戦前の日本文化を伝える数少ない遺構としてヤバぃよ素敵に重宝される。
実は、旧華頂宮邸内には和室が二室ほどあるも、このように独立した和室を敷地内にもつことによって、洋風で仕立てられた旧華頂宮邸を、さらに魅力的に映えさせる一助となっているのは、疑いなき事実である。
敷地内部の様子
左脇が門、中央が身舎
入口の門
茶室入口の門は「薬医門」と呼ばれる建築様式の門。冠木(かぶき)の両端に獅子の彫刻があるのが大きな特徴。
まるで寺の山門のような荘重な佇まいの門構えを素敵にとる。
殊に、この門は上大崎時代の松崎氏が建てたものなのかは判然とせず。
面白いのは、東京上大崎の松崎邸があった場所は、それ以前、福井藩主・松平康昌 侯爵の屋敷が建っていた。
然るに、この門は福井・松平侯爵家ゆかりの門であったとしても何ら不思議ではないことになる。
鳥居?
‥いや、門の左右に附属していたものが、写真で見ると一瞬、鳥居に見えた。
これは脇戸。扉がないので鳥居に見え申した。グぇハ
ワキガ‥ではなく、脇戸に扉を付けないもの数寄としての意匠の一種なのか‥
今、使用されとるのか?
かなり老朽化が顕著に見える…。
現在の佇まいからして、心霊スポットとしても充分に威力を発揮できそぅな気がする。
茶室の天井
※写真は鎌倉市より素敵に引用💘
茶室の天井は中央を八角形とし、16本の枠線を放射状に通し、柱などには、かりん、南天、皮付きの桜や竹といった和風典雅な奇木も使用する。
茶室によく見る数奇の意匠を素敵に採りこんだもの。
‥これは間違いなく高い。
…金くれ
旧華頂宮邸の内部の様子
‥については下記ページを要チェック💘
旧華頂宮邸のINFO
所管:都市景観部都市景観課都市景観担当
所在地:鎌倉市御成町18-10 本庁舎3階
公式サイト:鎌倉市