読み方
- 薬師堂ヶ谷(やくしどう が やつ)
鎌倉の北東には「覚園寺(かくおんじ)」が建つ谷戸(やと)があり、古来、北条義時公が創祀した薬師堂に因み、「薬師堂ヶ谷(やくしどうがやつ)」と呼ばれる。
現在の覚園寺山門
「薬師堂ヶ谷」の名前の由来
江戸後期に植田孟縉(うえだ・もうしん)が著した鎌倉攬勝考(かまくら らんしょうこう)によると、覚園寺の前身となる「大倉薬師堂」に由来すると記される。
大倉薬師堂は1218年(建保六年)7月9日、鎌倉幕府2代執権・北条義時公が薬師堂の造営工事を起こし、1218年(建保六年)12月2日に完成をみた。
以来、この堂は「大倉薬師」、「新御堂」などとも呼ばれ、多くの武士や鎌倉の民から尊信を集めたと云われる。
薬師堂ヶ谷の歴史
1223年(貞応二年)7月9日
薬師堂谷に草庵を結んだ浄密という僧侶がいた。
草庵の前庭には優曇華(うどんげ)の花が咲いたということで多くの人々が群集したが、その中に源頼朝卿の夫人・北条政子の姿があり、政子はその花を見るなり、これは芭蕉だと告げた‥‥旨の記述が見られる。
1239年(延応元年)11月20日
4代将軍・九条頼経の妻の大宮殿(二棟御方)は、この薬師堂ヶ谷に所在した丹波良基宅に移築され、新たに御産所も築かれた。
同月21日、辰の刻(午前8時)、男子を平産する。
この男子こそが後の5代将軍・頼嗣である。
1251年(建長三年)10月7日
二階堂大路の南から荏柄天神付近まで焼亡するほどの大火事が起こる。
この当時、荏柄にあった宇佐美判官祐泰(すけやす)の居館まで類焼したと伝わる。
1257年(しょうか元年)8月18日
6代将軍・宗尊親王の方違え(一旦別の方向へ行く事)の地について陰陽師を交えて討議され、結果、佐々木泰綱の薬師堂に在った山荘に決まり、翌月9月30日、親王は泰綱の山荘へ入御した。
1266年(文永三年)7月4日
武装した名越教時が薬師堂谷ノ亭より塔ノ辻の宿所に走り込み騒動となったらしい。
かつて薬師堂ヶ谷に存在した建造物など
大楽寺
覚園寺入口から鎌倉へ向けて下った1本道(現在は公道だが、往時は覚園寺の参道だった)の沿道右手には覚園寺の参拝者専用駐車場がある。
閑静な住宅街に突如として、それとなく広大な空間が出現することに疑問が生じるが、この駐車場の空間には、かつて大楽寺(だいらくじ)と呼ばれる寺院が在った。
⬆️大正初期に描かれた覚園寺および大楽寺境内の様子
大楽寺は明治初頭の廃仏毀釈の波に飲まれて廃絶。
現在、この大楽寺の本尊だった通称「鉄不動」や「試みの不動」も呼ばれ、覚園寺に奉安される。
ちなみに梵鐘は現在、厚木市上依知の浅間神社に現存する。
覚園寺の山門跡
覚園寺の山門跡は覚園寺へ向かう1本道の途中にある。
大楽寺跡(覚園寺駐車場)の付近に礎石がわずかながら残る。また傍には庚申塔が数基建つ。
勧学院
金沢文庫古文書の「三國仏法伝縁起奥書(仏教書)」によると勧学院が当地に所在したことを記す。
勧学院(かんがくいん)とは鎌倉時代以後、諸大寺に一宇を築いて宗学を学んだ場所。最古は1281年(弘安四年)に創建された高野山勧学院。勧学講院とも呼ばれる。
なお、高野山名所図会によれば、鎌倉の古刹「覚園寺(かくおんじ)」の住僧「道戒上人」の勧発(かんほつ/人に仏道を求める心を勧めて発起させること)によって、1318年(文保2年)に後宇多法皇の院宣を賜り、高野山へ移建されたと伝わる。
つまり、覚園寺と何らかの関連性のもとに当地(薬師堂ヶ谷)に勧学院が創設されたと見れる。
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薬師堂ヶ谷の地形
薬師堂ヶ谷は細く長い谷となる。現在は閑静な住宅街が広がり、その向こうに山の尾根連なる様子が繁茂する木々の隙間に見られる。
⬆️懸崖の擁壁
車1台通行するのがやっとこさというほど道が細い。
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、承久の乱を起こして世の中をひっくり返し、伝説の人物となった北条義時が主人公だったこともあり、覚園寺に注目が寄せられた。
しかしながら、普段は週末でもこの地域まで足を運ぶ観光客は極少にため、長閑で閑静な場所。
鳥のさえずりが耳の奥まで澄み渡るようにしてハッキリきりきりキリンレモンの開封後の刺激ほど、ハッキリと聞けるほどに覚園寺境内もガラ空きで居心地が良い。
観光地としての鎌倉ではなく、古都・鎌倉の風情が垣間見られる希少な場所でもある。