「西御門」とは❓
西御門は、鎌倉時代初期から中期頃まで頼朝卿の鎌倉の幕府が所在した場所。当地では「大倉幕府(おおくらばくふ)」と呼ばれる。
横浜国際大附属小中学校の敷地沿いに進んだ先の三叉路を左折し、10mほど歩いた先の三叉路を右折して曲がった通りが往時の大蔵幕府に通じる西大路or西御門路と呼ばれた古の鎌倉都の幹線道となる。
かつて横浜国際大附属小中学校の敷地に存在した建造物
現在の横浜国際大附属小中学校の敷地の運動場の部分には、かつて三浦義澄をはじめとした三浦一族の館ならびに、2代将軍・頼家の嫡男「一幡丸」の小御所が建っていたという説もある。
西御門は寺社が多かった
西御門は鎌倉時代初期より、大倉幕府が所在したためか、寺が多かった。現在、その多くは廃寺となっており、現存するのは来迎寺のみ。
西御門の廃寺一覧(一部は移転)
報恩寺(第二中学校付近)、保寿院(第二中学校付近)、高松寺(来迎寺の北)、法華堂(頼朝の墓の下)、ふけい寺、こうふく寺、太平寺(尼寺)など。
高松寺
高松寺は宮城県栗原市若柳字川北原畑へ移転。現在は日蓮宗の寺院。
報恩寺
- 宗派:臨済宗
- 開基:上杉能憲
- 開山:義堂周信
1371年(応安4年)の創建。本尊と推定される地蔵菩薩坐像は現在、来迎寺に奉安される。なお、廃寺の時期は不詳。
「西御門」の地名の歴史
鎌倉時代(「西御門」の名前が史書に初出)
吾妻鏡の1186年(文治二年)5月5日条によると、「美濃藤次安平西御門家‥」などと記されるように西御門が史上に登場したのが、これが初見とされる。
1213年(建保元年)5月4日条では、3代将軍・実朝が西御門へ赴き、和田合戦にて手傷を負った幕府方の武士188人の顔をあらため、論功行賞において実検したとある。
1224年(元仁元年)9月5日子の刻(正午)には西御門にあった三浦義村館が焼失。
1238年(歴任元年)正月10日に起こった火災にて三浦義村館ならびに後藤基清館が罹災する。(天野景村の館は事なきを得た)
父・三浦義村から館を譲渡された三浦泰村は、1247年(宝治元年)の宝治合戦にて館を焼失する。(この跡地に北条義時の館が建つ)
室町時代
1454年(享徳三年)、鎌倉公方・足利成氏(足利持氏の子)が関東管領・上杉憲忠を自邸(西御門亭)に招き、結城成朝の家臣である多賀谷氏家と高経兄弟によって謀殺されてい‥‥‥申す。チュゥしたろか(”誅殺”を表現) 享年22歳。 チュゥしたろか💋
安土桃山時代
浄光明寺文書によると、1590年(天正十八年)4月、太閤秀吉は小田原征伐において、当時、二階堂郷中の1郷であった当地に目をつけ、禁制を出し、掌握の手を進めたとある。
江戸時代
1644年(正保元年)に作図が試みられた「正保国絵図(しょうほうくにえず)」には「西御門村」の文字が見えるように江戸時代中期にも「西御門」の名前が踏襲されていたことになる。これも家康公の頼朝信仰の甲斐あってのことか。
江戸時代後期
1867年(慶応3年)の村銘細書上帳の中に「十二所村、浄明寺村、二階堂村、西御門村」が大蔵ヶ谷の村々として、「谷合四ヶ村(やつあいよんかそん)(俗に”ヤツヤ”と呼ばれた)」と呼ばれた事実が記される。
なお、明治中頃の西御門村は17戸ほどの民家が存在し、それらすべてが農家だったと伝わる。
明治時代
明治時代になると西御門の名前は消える。1889年(明治二十二年)、町村制施行にて鎌倉は東西ニヶ村、峠・十二所・浄明寺・二階堂・雪ノ下・扇ケ谷・小町・大町などと共に東鎌倉村に属す。
それから5年後の明治二十七年になると鎌倉町が誕生し、その大字(農山村部でも字よりも広い範囲の村落を指す)に属す。
昭和時代
1939年(昭和十四年)に鎌倉市が成立すると再び、町名としての「西御門」が登場する。
1968年(昭和四十三年)1月1日、住居表示が施行されて尚も「西御門」の名前が踏襲され今日に到る。
- 小字:蛇ヶ谷、山王山、赤山、飛石山、小笠原谷
「西御門」は町名の由来にもなった
現在の鎌倉には「西御門」、「東御門」という町名が残されているが、これこそまさに、かつてその場所に大蔵幕府の西門と東門があったことを示すものであり、名前の由来は大蔵幕府にかつて存在した東西南北の門名からきていることになる。
毎度おなじみ❗️鎌倉青年団の「西御門跡」に建てられた石碑❗️
碑文
西御門ハ法華堂西方ノ地ヲ謂フ
大蔵幕府西門ノ前面ニ當レルヲ
以テ此名アリ報恩寺保壽院高松
寺來(来)迎寺等此地ニ在リ𫝆(今)高松來迎二寺ヲ存ス大正十五年三月建 鎌倉町青年團
現代語訳
西御門とは法華堂西方の地のこと。
大蔵幕府西門の前面に相当する。
往時は報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺などが当地に在ったが、現在は高松寺、来迎寺の2寺を残すのみ。