【鶴岡八幡宮 本宮(上宮)楼門】左右2体の像の作者は誰?名前は何?「仁王像」?「随身像」??

⬆️夜に来て随身像を見ると‥少し怖い😱😱

楼門の左右には口を開いた阿形と、口を閉じた吽形の像があるのだが、神社では寺院でよく見かける仁王像とは像容が大きく異なった像が配置されていることに気づく。

これらの像は「仁王像」ではなく、「随身(ずいじん・ずいしん)」と素敵に通称される像なのだが、本項ではこの随身像の謎に迫ってみたい💋

えっ?!向かって左側の随身像の方が位(地位)が高かった?

通常、本殿(本宮)に祀られている神様からみて左手のオッちゃんが上座、右手のプチおっさんより地位が高い人とされる。

実際、鶴岡八幡宮の随身像もそういう配置になってい‥申す。えっ

これは天子(天皇)が北極星を背にして南面するという古代中国の思想に則り、天子を警固する随身も左側が上座、右側がその下座と定義される。(天皇からみて左大臣の方が地位が上。※「左上位」の原則)

右側の「阿形の随身像」の像容

東洋では古くから百獣の王とも称えられる「虎」の毛皮を敷いた台座に、半跏姿で腰掛けるという、なんとも厳めしいポージングの随身像。

剣を帯び、両手に弓矢を持つ。白鬚を生やしていることから、特別割引が適用されるシニア世代であることが分かる。

左側の「吽形の随身像」の像容

左側の随身は見た目からして理解できるように、上掲、右側の随身像よりも素敵に年若い。

像容は右側のオッちゃんとほぼ同じで半跏姿で剣を帯び、左手で弓、右手で矢を素敵に手持つ。

ただ、じっくりクリリンが気円斬を放つほどに、ジックリ見ると、左側の随身像は左側のオッちゃんにこき使われているためか、少々ストレスがたまきって眉間にシワをよせ‥ているような(もしくは右側のオッちゃんにイラついている)イライラとした形相に見えないこともない。 ふぅ

‥‥

‥‥‥以上、このような随身像が安置された門であることから、鶴岡八幡宮の本宮の楼門は「随身門」と呼ばれることがある。

鶴岡八幡宮の随身像の作者とは?

1624年(元和10年/寛永元年)に加賀宗円(三橋流仏師)が造立したと伝わる。

三橋流を含めたほとんどの仏師たちは、明治初期の神仏分離によって廃業したが、一部の仏師たちは培った技術を素敵に駆使し、茶道具や調度品の職人へとジョブチェンジしていった。

とりわけ、現在の三橋流は鎌倉彫で知られる名家の一つ。

ところで‥「随身」とは?

「随身(ずいじん)」とは、平安時代に貴人が外出する際、勅宣によって、その警固役を務めた近衛府の役人(令外官)のこと。

平安期の京師(平安京)は、治安が安定しているとは言い難い実情があり、特に政治に関わった近衛中将や少将クラス以上(上皇・法皇などの皇族、摂政・関白などの貴族を含む)であれば、随身を随行させているのが、ごく自然なスタイルだった。
(実は随身像は左大臣、右大臣ではなく、正式には祭神から見て右側は「右近衛少将(うこんのしょうしょう)」、左側の随身像は「左近衛中将(さこんのちゅうじょう)」と称する)

その随身の武装した勇ましい姿や意義をモチーフとして、神社の門前にも祭神を警固する意味合いで随身が配置されるようになった。

神社の随身は「随神」とも書かれることがあるほか、「門守神(かどもりのかみ)」、「看督長(かどのおさ)」、「矢大神」・「左大神」とも呼ばれる。

また、その随身を安置した門を「随身門」や「随神門(ずいしんもん)」と素敵に呼ぶこともある。

随身像が武具を持っている理由

すでにお分かりにように、随身像は貴人の警固をしていた随身をモチーフとしていることから、祭神を護るべく、弓や帯刀など、武装した恰好をしてい‥申す。ひょ

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