大臣山の場所(地図)
大臣山とは、あまり聞きなれないが鶴岡八幡宮後方の山のことを云う。
- 大臣山の標高:約50m
大臣山の名前の由来
鎌倉誌によると、なんでも現在の本宮が建つ場所一帯は飛鳥時代の著名な貴族・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が所有した鎌を埋めた場所であり、往時は「松岡(まつおか)」とも呼ばれたと記す。
また、大臣山の別名を「鎌倉山」とも記す。
江戸後期編纂の「鎌倉撹勝考」によると、頼朝卿が当地に八幡宮を勧請したことから、八幡大神が奉斎される後方の霊峰(聖なる山)と云う意味で「大神山」と書いて「だいじんやま」と呼んだとする説がある。
なお、撹勝考では「鎌倉山」は鎌倉全体の名称だと記し、鎌倉誌とは反意的な立場をとる。
風土記稿では「大臣山は鶴岡廟後の山、是なり」と記す。
1755年(宝暦五年)の相州鎌倉之図に記される「鎌倉山」
1755年(宝暦五年)に作図された相州鎌倉之図を見ると、確かに現在の鶴岡社の本宮後方の山を「鎌倉山」と記してい‥‥‥申す。クォマっ(鎌倉の”鎌”を表現)
現在の牡丹園もしくは旗上社が建つ源氏池の池畔に「柳原」と記される。
大臣山への行き方
残念無念ながら、現在、大臣山へは行けない。
大臣山へ登拝する参道と思わしき道の入口には入れないように柵が設けられてい‥‥‥申す。ダァッズィ〜っ(大臣の”ダイジ”までを表現) しらんわ
三代将軍・源実朝暗殺劇では公暁が逃げ込んだ山
吾妻鏡によると、実朝を本宮外の楼門前で殺害(暗殺)した公暁(くぎょう/こうぎょう)は、この大臣山へ逃げ込んだとされる。
執権・北条義時は直ちに『阿闍梨(あじゃり/公暁)誅し奉るべし!』と公暁追討命令を三浦義村へ発し、義村は長尾定景以下5人の配下に命じて公暁を討ち取るように命じた。
一節に公暁は僧兵に位置付けられるように一介の僧侶にあらず、武具を自在に操れたことから、三浦家中でも勇名で知られた長尾定景を刺客に任じて5人の配下を付けたとも云われる。
こぅして定景らは義村に会うために山(大臣山/鶴岡八幡宮の後方にそびえる山)を越えてやって来た公暁の姿を確認すると、定景麾下の雑賀次郎(さいかの じろう)が組み討ちを仕掛けて、定景が公暁の首級をあげ、義時邸へ送り届けた。公暁、享年20歳。
なお、以後の公暁の首がどなったのは未詳とされる。(幕府では「首の行方は知れず」として処理)
明治天皇が陸軍野外演習した場所である❗️
現在、大臣山の入口と思わしき場所の柵の脇には、1873年(明治6年)4月15日に明治天皇が我が国で初めて陸軍野外演習を実施したことを記念する石碑が建つ。
明治天皇閲兵之處(石碑の内容)
表題 陸軍中将曽我祐準謹書
明治天皇閲兵之處ト題スル碑此
ノ山上ニ在リ明治六年四月十五日大臣
山上ニ初メテ野外對抗演習ヲ閲セラル
此レ其ノ御遺蹟ナリ書ハ當時ノ指揮長
官曽我陸軍中将ノ揮毫ニ係ル
どうやら大臣山への道を進んだ先、山頂と思わしき場所にも以下のような「明治天皇閲兵之處」と陰刻のある石碑が建てられている模様。
⬆️鼻毛引っこ抜いたら鼻クソが先に付いとった時ほど噂の‥‥大臣山へ通じる山道(明治天皇鎌倉御野立所の石標が建つ)
明治天皇閲兵之處
明治天皇夙ニ武勇ヲ重ンシ兵制ノ基ヲ定メ給フ六年二月教導團歩兵第一大隊及
歩兵第五大隊ノ鎌倉ニ野営スルヤ特ニ指揮長官ヲ陸軍少将曽我祐準ニ命シテ演
習ヲ統裁セシム四月十四日車駕場ニ臨ミ翌十五日御馬ヲ鶴岡八幡社前ニ立テテ
二隊ノ整列及分列式ヲ親閲シ其ノ攻守對抗運動ヲ此ノ処ニ觀給フ時ニ一隊ハ社
域ヲ拠守シ一隊ハ金澤口ヨリ来リ攻ム朝来ノ大雨御衣ニ滴ル将卒感激シ奮闘ス
ルコト時餘劔光銃火勇壮ヲ極ム是レ實ニ天覧野外對抗演習ノ初ナリ茲ニ昭和ノ
大禮ニ丁リ同志ニ檄シテ碑ヲ建テ聖蹟ヲ不朽ニ傳ヘ國軍発展ノ渕源ヲ明ニス昭和三年十一月三日建
鶴岡八幡宮奉賛會
帝國在郷軍人會鎌倉町分會
同 鎌倉郡聯合分會意味
明治天皇閲兵の処と題する石碑が、この大臣山の山上に在ります。
明治6年4月15日、明治天皇は大臣山にて、初めて我が国陸軍の野外演習
をご親閲になられました。天覧野外演習の初めといわれます。
その後、八幡宮廻廊にてご装束にお召替えになり、御本宮を御親拝になられました。
明治の愛国心、質実剛健の国民思想、その輝かしい躍進と功績に思いを致し
明治天皇の遺徳を敬慕し、明治の精神を顕揚するため設立された鎌倉明治会
50周年の佳節に当たり、大臣山の整備事業と記念式典が執行されました。平成27年11月3日
鶴岡八幡宮
鎌倉明治会