鎌倉大仏(高徳院)「観月堂」
造営年
1400年代中頃か
移築年
1924年(大正13年)
大きさ
幅約7.4m、奥行き約5.1m
屋根の造り
切妻造・平入り
ご本尊
木造 観音菩薩立像
「観月」の名前の由来
その名の通り月を眺めるための建物らしく、この名前が素敵に付された。
おそらく往時は現在よりも広々とした場所に優雅に建っていたのでしょう。
鎌倉大仏(高徳院)「観月堂」の歴史
高徳院の観月堂は、もともと、李氏朝鮮の漢陽(現在のソウル)の王宮にあった建物でした。
しかし、ある時、借金の担保として朝鮮拓殖銀行に受け渡されてしまいました。
その後、朝鮮拓殖銀行の経営危機に際して山一合資会社(現在の山一證券)が融資を行った際に、銀行から山一合資会社に提供され、日本に渡ったようです。
日本に来てからは、東京都にある山一證券の創業者杉野喜精氏の私邸にありましたが、1924年(大正十三年)、同氏によって高徳院に寄贈されました。
観月堂がなくなる!?
2010年5月、日韓仏教交流協議会関係者同士の話し合いにより、観月堂を再び韓国に戻すという協約が交わされました。
ただ、具体的な時期や方法については未定のまま、現在に至っています。
鎌倉大仏(高徳院)「観月堂」の建築様式(造り)・特徴
切妻造の屋根とは、本を開いて伏せたような形の、二方向に斜面を持つ屋根のことです。
切妻屋根の斜面がある面を「平」、平と垂直な面を「妻」といい、観月堂のように「平」の面に出入口がある建物のことを、「平入り(ひらいり)」と呼びます。
観月堂は、一見派手さのない質素な建物のようですが、よく見てみると、至る所に装飾が施されていることがわかります。
例えば、格子戸の上の頭貫(かしらぬき)という部分や、屋根の下の虹梁(こうりょう)と呼ばれる梁には、彩色模様の跡があります。
また、虹梁を支える持送(もちおくり)などには、唐草模様の彫刻が施されています。
ただ、参拝者は建物よりも手前にある柵から中に入ることができないので、これらの装飾や装飾跡はなかなか見えません。
柵の外からでも比較的簡単に確認できるのは、軒瓦に入っている龍の紋や、高欄の双喜紋のような形の組木です。
観月堂以外のお堂が現存しない高徳院ですが、仁王門や手水舎と比べてみるだけでも、観月堂の瓦葺屋根は異質な印象を受けるでしょう。
⬆️左右の壁は石壁が用いられている⬆️実にモダンな面格子が据えられてた窓枠。大正時代のレトロな雰囲気が漂う
⬆️妻側の壁面に見える雲形の肘木がいかにも大陸らしい禅宗様を漂わせる
⬆️韓国や中国でよく見かける堂舎の特徴1つ「アコーディオン形式の折りたたみができる扉」
⬆️なんと!妻側にも据えられている⬆️ラーメンの器を彷彿とさせる中華風の高欄。法隆寺の卍崩しの高欄を思い出す‥
鎌倉大仏(高徳院)観月堂のご本尊「観音菩薩立像」
大きさ
総高110.0cm、像高64.3cm
ご本尊の観音菩薩立像について、高徳院境内の案内板やホームページでは「江戸後期の木造観音菩薩立像」と説明があります。
一方で、江戸幕府二代将軍徳川秀忠が寄進したものであるとも伝えられています。
高徳院のご本尊である大仏像は阿弥陀如来で、極楽往生を約束してくださる仏さまですが、観音菩薩は、現世利益を与えてくださる仏さまです。
建物の中に入ることができないので、美しいお姿を間近に拝することは叶いませんが、お堂の前で、日頃の心配事や将来の希望をお話しすると良いでしょう。
観月堂の御朱印
高徳院観月堂は、鎌倉三十三観音霊場の第二十三番札所となっており、「南無聖観世音」の御朱印をいただくことができます。
御朱印所は、大仏像の向かって右側にある、直営売店の奥の窓口です。
鎌倉大仏(高徳院)の御朱印についての詳細は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
鎌倉大仏(高徳院)「観月堂」の場所
廻廊の左側の小路を奥へ歩いて行くと、売店とお手洗いがあり、更に回り込んで、ちょうど大仏像の真後ろとなる辺りに、観月堂があります。
大仏像の周りが混雑している時でも、観月堂がある境内の裏手は比較的空いていることが多いので、ゆっくりと落ち着いて見ることができます。
おわりに・・
いかがでしょうか。
高徳院に行く際には、大仏像を見るだけで帰ってしまわずに、ぜひ裏手に回って観月堂にもお参りしてくださいね。
鎌倉大仏(高徳院)の拝観情報や回り方についての詳細は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。