銭洗弁財天の起源
銭洗弁財天の起源は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の夢と関係があると伝えられています。
巳年であった文治元年(1185年)の、巳の月、巳の日のことです。
長い戦乱により市民の生活が苦しくなっていたことを嘆き、お祈りが日課となっていた頼朝の夢に老人の姿の宇賀神が表れ、こう告げました。
「北西の谷にある泉には福の神が住んでいる。水を使って神を祀り祈るようにすれば、平穏な世の中になるだろう」
頼朝は早速、この谷を探させ、その岩壁に湧水を発見し、洞窟を掘って宇賀神を祀りました。
この洞窟が、現在の銭洗弁財天の起源とされています。
ちなみに、「巳の月」とは旧暦4月のことを言います。
「巳の日」は、12日おきに巡ってくるので、1か月に2日ないし3日あります。
銭洗弁財天の歴史(年表)
鎌倉時代
1185年(文治元年)
1185年(文治元年)、源頼朝卿が当社を創建す。
創建の理由
鎌倉幕府を開いた長い戦乱に疲弊した人々の苦しみを拭い去る方法を考えていた1185年の巳の月の巳の日に不思議なことが起こる。
1人の老人が夢枕に立ち頼朝卿にこう告げるのです。
ここから西北の方角に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出している。
そこは清浄な地で福の神が住み、その水を使っている。
この水こそは真の神の霊水である。
この水を絶えず使用し、神仏をまつれば人々は自然に信仰心を起こし、悪鬼や邪鬼も退散して国内はすぐに平穏に治まる。
私こそは隠れ里の主人である字の通りに西北の谷に泉を見つけた。
そこに岩窟を掘らせ、宇賀神をまつり、その水を使用して神仏の供養を続けると国中は静かになり、人々は富み栄えるようになる。
こう告げてスぅ〜っと姿を消したそうです。
1257年(正嘉元年)
1257年(正嘉元年)の巳の年の仲秋に時の執権・北条時頼公は、頼朝卿の信心を受け継ぎ、隠れ里の福神を信仰する。
この時、時頼公は「辛巳(かのとみ)」なる「金(かね)の日」が、すべての人に福徳が授けられる日だということを調べあげ、人々に参詣を勧める一方で自らも金銭を洗い清め、一家繁晶、子孫長久を祈願したそうな。
なんでも、弁財天を信仰する者が金銭をこの水で洗い清め、心身をも清め行いを慎めば、不浄の塵垢(ちりとあか)が消え失せ、清浄の福銭になるとのこと。
以来、七百年間、銭洗井は「鎌倉五名水」の1つとして天下に聞こえ、四季の参詣者は絶えることはありんせん。
銭洗弁財天に弁財天が祀られた経緯
北条時頼が銭洗いの信仰を始めた頃、この銭洗弁財天は扇ヶ谷(おうぎがやつ/鎌倉)にある相馬天王の末社だったようです。
また、宇賀神を祀って創建したとされていますが、時代を下ると弁財天と宇賀神が同一視されるようになり、やがて弁財天も祀るようになっています。
江戸時代
江戸時代まではもっぱら「銭洗弁財天」の名前で親しまれますが、時代の変遷により、いつしか、相馬天王の末社になります。
明治時代
明治時代初頭に政府主導で神仏分離政策が行われると、相馬天王は八坂大神と改称しますが、この時、当神社は「宇賀福神社」を名乗って市杵島姫命を祭神とします。
なお、この相馬天王ならびに八坂大神は現在の寿福寺のとなりに鎮座する神社でガンス。
昭和時代
1970年(昭和45年)、八坂大神から独立し、「銭洗弁天宇賀福神社」と改称し、現今に至りまする。
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