【泉親衡の乱】倒幕計画の首謀者・泉親衡の正体とは❓|和田合戦

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泉親衡とは❓

泉親衡(いずみ ちかひら)は信濃源氏・泉次郎公衡の子。

通称・泉小次郎。

泉氏は信濃国小県郡小泉荘を根拠地とする氏族であり、源平合戦(治承・寿永の乱)を機とし、鎌倉幕府の御家人となる。

頼朝卿の死後、北条氏の政権色が濃くなると、源氏に忠節を誓う信濃や上野などの源氏武士たちは反感を抱くようになった。

泉親衡の乱

1213年(建保元年)2月15日、頼朝卿挙兵に随従した千葉常胤以来の幕府功臣の千葉家当主・千葉介茂胤(しげたね)が、幕府に対して常胤以来の功績を蔑ろにされている実態に不満があるハズと決めつけた僧侶の阿静房安念(あじょうぼう あんねん)は、千葉の館(現在の鎌倉市役所の北側の地)を訪ねた。

無論、目的は千葉茂胤に倒幕計画への参加を促すためである。

阿静房安念とは信濃武士・泉親衡の郎党である青栗七郎の弟。無論、この青栗七郎はおろか、泉親衡も倒幕計画の加担者となる。

ところがドッコイ、茂胤は安念の話を聞くや否や突如、安念を拘束し、謀反人として執権の北条義時のもとへ連行したのだった。




俊敏かつ隙のない義時の対応

義時は倒幕計画に加担した可能性のある者を調べ上げるよう下命すると、まず、計画の中心的人物として信濃武士の泉親衡という人物の名前が浮上した。

すぐに泉親衡の捜索が開始されたが、ようやく鎌倉の筋替橋の近くに潜伏しているという情報が舞い込んむ。

そこで工藤四郎が泉親衡を捕縛するために筋替橋へ急行し、実際に筋替橋付近にいた泉親衡と斬り合いになったが、泉親衡は工藤四郎ほか、数名の手勢を斬殺の上、逐電に及んだ。

ちなみにこの後、追っ手が差し向けられた事実はなく、だとすれば、泉親衡は逃がされたともみれる。

和田義盛の陰謀

さらに義時は、泉親衡の根拠地となる信濃を中心とした地域を調べ上げるよう下命すると、驚くことに総勢130余人とその家臣200余名もの人物が加担していた可能性が露見し、捕縛されるという大事件となった。

その翌日には上総広常の甥っ子・臼井十郎、八田知家の子・八田三郎ら十数人も連行されたが、その130余人の中に和田義盛の子・義直と義重、甥っ子の胤長(たねなが)も姿もあった。

この当時、北条一族と和田一族は御家人衆の中でも飛び抜けた勢力を有し、両者の険悪なムードは広く知られていたが、義時は和田一族、ひいては一族の当主である和田義盛の計画であることを察知する。

泉親衡の正体とは❓

130余人もの人物が捕縛されている事実を以ってこの計画は大規模なものではあるが、対して泉親衡や泉氏はそれほど有力な豪族(御家人)では無い。

一説に和田一族のパシリ(使者)的な立場だったとする見解もある。

捕縛された者どもの中に和田義盛の息子たちの姿があった事実を以って、これは和田義盛の息子たちが後ろ盾となって泉親衡が策動していたとみられる。(見方を変えると義盛の意志に反して息子たちが各地の武士に対し、父親の計画への協力を募っていたとも考えられる)

信濃源氏を中心に策動した倒幕計画

和田義盛が打ち立てたとされる倒幕計画は信濃武士の参加者が多く、その信濃武士の取りまとめ的人物であったのが泉親衡だとされる。

どうやら同氏を中心とした組織が成立していたらしく、上野(こうづけ)、信濃、越後、下総の武士たちにまで調略が及んでいた模様。

囚人となった130余人の取り調べは続行されたが、やがてその中の1人が「千寿丸(二代将軍・頼家の遺児)」の名前を洩らすと状況は一転する。

それはもはや空前のクーデター計画と呼べるものであり、実朝を廃して千寿丸を打ち立て、新政権を樹立する計画だったことになる。

逆賊となった計画加担者たち

千寿丸の名前が出てきたことによって倒幕計画と新政権樹立構想が露見し、計画加担者たちの立場は大きく変わる。

一転して逆臣と相成り、斬首という判決が下されたのだった。

なお、義盛の子・胤長に関しては陸奥国(むつのくに)岩瀬群(いわせぐん/現在の福島県 岩瀬郡 鏡石町 鏡沼)に配流となった。

その後の泉親衡の行方

その後の泉親衡の行方は知れず、以後、追討されたことも記されていない。

さらに計画策動の中心人物だった胤長以外の他の武士たちも一部は、赦免もしくは助命されている事実を以ってして、これはすべて北条義時の手の内にあった策謀だった可能性もある。

瑶光山・最明寺(埼玉県川越市小ヶ谷町)の縁起によると、泉親衡は頼家の遺児・千寿丸を随伴し、埼玉県川越市小ヶ谷町に逃げ延び、当地の最明寺にて出家し、「静海」と称する僧になったとする。

その後も当地に逗留し、1265年(文永二年)5月19日に死没したとされる。享年88歳。境内には静海を供養する宝篋印塔も現存する。

なお、泉親衡の乱後、信濃小泉荘は収公され、北条泰時に下賜された模様。

その後、泰時は小泉荘内の室賀郷を信濃・善光寺に寄進したと伝わる。




北条義時陰謀説

この頃、北条氏も信濃の諏訪大社周辺の氏族と、よしみを通じていた事もあり、泉親衡と内通していた可能性も捨てきれない。

だとすれば、泉親衡は義時の策動(命令)によって動いていた可能性があり、つまり、親衡を通じて和田義盛の息子たちに幕府転覆計画の草案を持ちかけたともみれる。

その後、和田義盛の息子たちをとその関係者を捕縛するに到るも、計画の中枢にいた人物の多くが赦免、助命されている事実を以ってして義時の陰謀である可能性は多いにある。

大勢の前で義盛に恥をかかせた事や、義盛の蜂起前に囲碁を打ったりしていたのもすべて幕命によって義盛を逆臣に仕立てる伏線であったともみれる。

なお、義時が囲碁を打っている時に大江広元は酒宴に興じているなど、義盛を挑発しているようにしか思えない。

互いの館や御所までもが至近距離にある事実を以て、義盛が攻めて来たら三浦義村を通じて御所の北側へ逃げる手筈になっていたともみれる。

その義村は和田合戦における最大の功労者であり、義時は真っ先に三浦義村に対する調略の手を差し向けてい‥‥申す。きゃ

和田合戦のみならず、その伏線に位置づけられるこの泉親衡の乱すらも三浦義村の活躍無しには成り立たなかった。

義時は和田合戦前に義村へ、御所の北側に陣取る事を義盛に提案するように命じ、その後、自身が広元と実朝を連れて義村の陣を通り抜け、北側山上の頼朝卿の墳墓(法華堂)へ逃げ込む手筈だったとみれる。

万が一、和田勢が攻めかけてきても麓(山裾)に陣取る三浦勢が護ってくれる。

以上、和田合戦のみならず、その伏線上に位置づけられるこの泉親衡の乱すらも義時が頭中に描いた、和田義盛を幕命によって亡き者にするための策謀だった可能性があるという説を述べた。

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