源頼家の嫡男「一幡丸」の「小御所」の場所はどっち❓|【比企能員の変】

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比企能員の変にて2ヶ月半ホジホジしなかった耳クソの大きさほど、度々、登場するものに「小御所」がある。 どゆ意味や

実は小御所の場所は大倉御所の敷地内にあったのか?それとも比企の館の敷地内に建てられていたのか?判然とせず、今日までその実態は未詳とされてきた。

以下では比企能員の変の折、一幡丸(いちまんまる)とその母ジャである若狭局(わかさのつぼね)が立て籠もったと伝わる小御所の場所について考察してい‥申す。コ、ギョジュァっ(”小御所”をポルトガル風に表現 …どゆ意味や)

妙本寺祖師堂と比企一族の墓

小御所(こごしょ)とは❓

将軍の世子(次代将軍)には将軍の御所とは別に居処となる建物を築き、それを小御所として与えた。

このように居処を分けることによって、万が一の有事の際には確たる対応(いずれかを逃すなど)がし易くなるというメリットがあった。

このような小御所は京都御所の様式に倣ったものであり、京都御所においては清涼殿の東側に建造され、皇太子の元服の儀式のほか、幕使(幕府の使者)などとの面会、会議などに用いられた。

京都御所の小御所(画像引用先:https://ja.wikipedia.org

しかしながら、鎌倉時代初期、頼朝卿の御代の頃には将軍と世子の居処をキッチリと分け隔てる発想がなく、同一の廊内で暮らしたと見られることから、当初、有事の際の危険を分散するような発想が無かったと思われる。

小御所の建造

1180年(治承四年)12月12日、かねてより念願だった頼朝卿の大倉御所は完成を迎え、大いに湧き立ったが、頼朝卿は新たに大倉御所の増築計画を発案し、御家人たちに下命が下った。

吾妻鏡によると、1181年(養和元年)5月24日、小御所の範囲を現地にて示すために杭を打ち、これに縄を通して実物大の設計図を置いた。

同年、28日には立柱上棟式が執行され、一応の完成を見た。

この建造物こそが頼朝卿の世子(世継ぎ)となる頼家の居処であり、後に小御所と呼ばれることになる。(このときまだ頼家は誕生していない)


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頼家が小御所に入る

吾妻鏡には1186年(文治二年)8月20日、小御所東側の修営の後、御移徒(わたまし)があったことが記されており、これは頼家が小御所に移ったことを意味する。

1189年(文治五年)正月9日には、「若君の御方(小御所)の南面にて弓始めの儀(ゆみはじめ/武家の新年奉祝の行事)‥‥‥」など記されていることから、すでに1189年には頼家の館となっていたことが明白。

頼朝卿死後の小御所の様子

頼朝卿が逝去した後、その後を継いで2代目将軍・鎌倉殿となった頼家は鎌倉殿の御所である大倉御所へと移る。

この頃、頼家には「一幡丸(一幡)」という嫡子が居り、やはり頼家と同様、すでに頼家の世子となる一幡丸に小御所が与えられ、一幡丸は頼家が過ごした小御所に入った。

小御所で勃発した合戦(比企能員の乱)

吾妻鏡によると、1203年(建仁三年)9月2日、蛭子‥‥ではなく比企能員!!が北条時政の名越亭で誘殺されると、残された比企一族は頼家の嫡男たる「一幡君ノ御館」へ立て籠もったと記す。ふっ

ここに記載されている「一幡君ノ御館」とはまさにぅぃ!「小御所」のこと。

ここで次にような疑問が生じる。

吾妻鏡が示す小御所の場所が大倉御所内部にあった小御所を指すのか?

それとも比企館内に新造されたと思わしき小御所を指すのか?

一説に比企館の最奥(現在の妙法寺祖師堂のあたり)に一幡の小御所が在ったとも云われるが‥‥‥はてさて。

⬆️祖師堂の最奥の風景。現在は木々が繁茂する杜(もり)となっている。(立ち入り不可)

比企館内部の小御所を指す見解が有力!?

一幡丸の母親は比企能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)であり、さらにこの当時、一幡丸はまだ物心つくかつかないかの幼児(6歳と云われる)。

だとすれば若狭局の生家である比企館内部に小御所が新造され、そこへ一幡丸と若狭局が入って居を共にしていたという見方が自然。

しかしながら、ここで新たな疑問が生じてくるのだが、これによりこの話はさらに深みへと入っていく‥‥。

愚管抄(ぐかんしょう)の巻六によると、頼家は公文所別当であり将軍補佐官でもあった大江広元(おおえのひろもと)の屋敷にて倒れ、広元の館での病床にあったことが記されてい‥‥申す。ヒルゥォっ(”広元”だけに)

さらに続きがあって「本体の家に並んで一幡の御所がある」‥‥などと記されており、これを分かりやすくすると、本体の家=大倉御所の中に一幡丸の小御所があったことを意味する。

ただ、この小御所がかつて頼家が過ごした小御所なのかは判然としないが、この当時、大倉御所内の東側に北条政子の東御所が建てられていた事実を加味すれば、一幡丸の小御所は西側に建てられていた可能性が高ぃ。

以上を想定して一幡丸の小御所の場所を地図で示すと現在の八幡宮の東門を出たところに建つ「横浜国立大学教育学部 附属鎌倉小学校」の敷地(雪ノ下3丁目5−10)あたりが該当する。

黒ゴキの気持ち悪さほど噂の横浜国立大学教育学部 附属鎌倉小学校 …どんな噂や

想定される一幡丸の小御所の場所(地図)

3代将軍の座に就いた実朝には子が無かったことから、一幡丸の死後、この小御所は無主となっていたことが想像につく。


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歴代の小御所に関わる記述

1209年(承元三年)11月4日、小御所の東面の小庭で御家人たちが切的(きりまと)に興じていたことが記されてい‥‥‥申すキャ

1212年(建暦二年)4月6日、小御所東面の柱の根に花が咲き‥‥などの記述がある。

1213年(建保元年)5月4日、和田合戦にて大倉御所が焼失していたことから、論功行賞は西御門に幕を立てて行われたが、その折、北条朝時(ほうじょう ともとき/名越流の流祖)は御所内の中庭を進んで小御所東面の簾中(御簾/みす/の中)に入ったことが記される。

同年8月20日、再建が成った大倉御所へ実朝が大江広元亭から移りこんだとき、近侍の伊賀仲能は小御所から実朝の御衣を持ち出している旨のことが記される。

1230年(寛喜二年)6月5日、幕府ノ小御所に白鷲が集まった‥‥旨のことが記されることから、この当時の御所であった若宮大路通り沿いの宇津宮御所(宇津宮辻子幕府)内にも小御所が存在していたことになる。うきゃ

しかしながら、この小御所の所有者になるべき5代目の九条頼嗣(くじょう よりつぐ)はまだこの世に生を得ていなかったことから、当初は無主だったことになる。(九条頼嗣は1239年に誕生)

1235年(嘉禎 ( かてい )元年)正月20日、当代将軍の頼経は御出(外出)前に小御所東面に居たことが記されている。

‥‥以上を考察すると小御所の場所とは次のようになる。

小御所は本家の御所(当代将軍の御所)内部に建てられていた!

比企能員の乱の折、若狭局以下、比企一族は一幡丸の小御所に立て籠もったとされるが、この小御所は大倉幕府が所在した大倉御所の内部に建てられていたとする説が濃厚であり、だとすれば比企の館内部には小御所は無かったことになる。

吾妻鏡の記述を正説とするならば、比企能員の変の折、北条義時が率いた軍勢は比企館のみならず、大倉御所へも攻撃の手を回したことになるが、比企能員の乱が勃発した1203年には大倉御所が焼失した記録が見られない。

だとすれば一幡丸と若狭局は焼死していないことになる。

これはつまり、比企館に一幡丸と若狭局がいると思わせて立て籠もったが、これは義時と政子を欺くための陽動であり、実は一幡丸を抱きかかえた若狭局は大倉御所内部の小御所内のどこかに隠れ潜んで居て、その小御所から一幡丸を抱きかかえまま、隙を見て脱出した‥‥とも考えられる。(愚管抄によると、ほどなく義時の手下に見つかって斬殺とある)

これは吾妻鏡より、愚管抄に記される内容の方が信憑性を増してくることになる。

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