【源実朝暗殺事件】公暁の歴史orその後(逃亡or死因一覧)を….0.2センチ知りたいと今願った❓

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まず、「公暁」の読み方の紹介から‥‥

これまで「公暁」と書いて「くぎょう」と読むのが一般的だったが、ところが近年、「公暁」と書いて「こうぎょう」「こうきょう」などと読まれる傾向がある。

なぜ「こうぎょう」と読まれるようになったのか?

「公暁」が「こうぎょう」と呼ばれるのが正式であるとの見解は、どうやら当人が指南を仰いだ師と呼ばれる人物が大きく関与しているとみられてい‥‥‥申すコキュっ(公暁を可愛らしさ♡を込めて表現)

師名出自など
貞暁(じょうぎょう)源頼朝の三男で第4子(庶子)
公胤(こういん)中院右少将源憲俊の子とされる
公顕(こうけん)上記、公胤の師
定暁(じょうぎょう)鶴岡八幡宮寺3代目組長‥‥ではなく、別当!

公暁の師は貞暁もしくは鶴岡八幡宮寺の三代目別当の定暁のいずれかと見られているが、現今では定暁という説が濃厚。

通例であれば、僧侶の戒名は呉音で読まれことが多い。(特に公暁が宗門を叩いた園城寺など)

公暁は修行のために1216年(建保四年)に園城寺の門を叩き、公胤僧正より灌頂(かんじょう)の弟子となった暁に名を「公暁」と改めてい‥‥‥申す。アっ

歴代の「公暁」の読み方一覧

史料読み方
承久軍物語( 承久記の異本)こうきょう
承久記(1550年頃に成立した尊経閣文庫本)こうせつ
承久兵物語(1781年から1789年/天明年間/編纂)こうきやう
吾妻鏡(寛永版)クゲウ
新編鎌倉志クゲウ

ウィキペディア参照

⬆️えだ豆500g食べた後の屁の臭いほど噂の‥‥月岡芳年作「美談武者八景 鶴岡の暮雪/1868年(明治元年)」

公暁とは?公暁の来歴を簡単に説明してみよぅ!

公暁は鶴岡八幡宮4代別当にて、二代将軍・頼家の三男坊。幼名は善哉(ぜんざい)。

吾妻鏡によると母ジャは「辻殿」と呼ばれた足助重長(あすけ しげなが/加茂六郎重長)の息女もしくは、鎮西八郎為朝(源為朝)の孫娘にあたる。

日本の初期の系図「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく/新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集)」よれば、比企能員の娘の若狭局(わかさのつぼね)とされる。(つまり、比企の乱で焼死した一幡の次男か?)

公暁のルーツについてWiki(ウィキ)を参照すると、”縣篤岐本「源氏系図」では三浦義澄の娘”とする旨の記載があるが‥‥”あがた あつき本”?

はぃ、‥‥ということで、公暁は貴種ということもあって鶴岡八幡宮寺三代目別当・定暁の弟子となり、その折、父・頼家から一字を頂戴したのか「頼暁」と称する。

1216年(建保四年)、修行のために園城寺(三井寺)の宗門を叩き、公胤僧正より灌頂(かんじょう)を受け、その弟子となり入寺。

この時、「公暁」との戒名を授かる。

公暁の鶴岡八幡宮寺別当就任は政子の陰謀か?

三代目八幡宮別当職にあった定暁が遷化(他界)したことから、公暁を哀れんだ政子の計らいで八幡宮の別当に就任させた。

公暁は政子の命で1217年(建保五年)6月20日に園城寺から鎌倉へ下向し、正式に政子から八幡宮寺4代目別当に補任された。(後に異称として「悪別当」とも呼ばれる。)

同年8月15日の放生会、同16日の流鏑馬には三代将軍・実朝も隣席してい申す。時に公暁18歳。

公暁の叔母にあたる北条政子が公暁を八幡宮の別当に補任させたのは、義時と共謀した実朝殺害計画の伏線という見解もある。

政子の実朝排除の動機とは?

政子は実朝に一向に子(嗣子)ができない事態を危惧し、1206年(建永元年)10月22日(公暁7歳)、実朝の猶子(ゆうし/体面上の実朝の子供)とした。(実朝は公暁の叔父にあたる)

また、政子は(建保五年)2月4日、病気がちな実朝の快復祈願と厄除けのために熊野へ社参の途についたが、あくまでも目的は上洛にあった。

政子が上洛した目的は10年経ても一向に子ができない、実朝の次代皇族将軍の鎌倉着座を願ってのものだった。

政子は京師に逗留しつつ、後鳥羽上皇の乳母となる藤原兼子との会談を重ね、その末になんとか兼子が養育していた頼仁親王(後鳥羽天皇の皇子)を次代鎌倉殿に推戴する約束を2人の間で交わすことに成功する。

政子が官位を賜る

吉報はそれにとどまらず、兼子の口添えもあって政子にも従三位の官位が叙された。(同年10月13日には従二位に昇叙)


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1217年(建保五年)10月12日より公暁に異変が起こる!

公暁は1217年(建保五年)10月12日に拝社すると、その晩から宿願と称して以降1000日、上宮西の壇所にて参籠(千日参籠/堂にこもって読経などを行う修行)を開始するのだった。

公暁は以下、鎌倉における盛大に催された行事の時にも姿を現すことなく参籠し続けた。

できごと
1218年(建保六年)
正月13日
実朝、権大納言に任ぜられる(頼朝卿の祥月命日でもあったが実朝は参拝す)
1218年(建保六年)
3月16日
左近衛大将に任ぜられる。同時に左馬寮監になる。
1218年(建保六年)
6月14日以降
左大将拝賀の参詣行列のため後鳥羽院より下賜された牛馬や装束などの金品が到着す。
1218年(建保六年)
6月27日
実朝、左近衛大将の拝賀のため八幡宮上・下宮へ神拝す。
この拝賀式は京師より下向してきた殿上人10余人が加わる大行列が編成され、政子・実朝夫人の隣席および、市中の民百姓が見守る中、盛大に催された。
1218年(建保六年)
7月8日
実朝、左大将直衣始にて八幡宮へ参拝す。
(この日、義時も実朝の付添人として八幡宮へ参詣したが、館(家)に着いた途端、まるで”フラ”ダンスを踊るかの如くにド頭が”フラ”フラ”として眠りに”フラ”っと落ちた。
(この時、義時の夢枕に戌神が立ち「来年の拝賀の際、(実朝の)供をするな」と告げた有名なエピがある)
1218年(建保六年)
8月15日
放生会、16日に流鏑馬と実朝参拝す。
1218年(建保六年)
10月9日
実朝、内大臣に任ぜられるも拝賀の記録なし。
1218年(建保六年)
12月2日
実朝が右大臣に任ぜられる。左大将を兼任す。
(この日、義時建立の薬師堂(現・覚園寺)に雲慶(運慶)手彫りの薬師如来像が安置される。
導師に退耕行勇、義時以下一族郎党、一部の御家人衆も参列。

1218年(建保六年)9月13日の十三夜の闘争は三浦義村の実朝暗殺計画の一端か❓

9月13日の夜、名月観月のため市中の童たちが鶴岡境内に来ていたが、宿直警護の武士たちとの間で鶴岡境内にて闘争事件を起こした。

この当時、八幡宮では御家人による宿直警護が実施されていたが、翌日調べたところ、なんでも警護の武士たちが逆に童たちに殴られたというものだった。

ただ、闘争の主犯格が三浦義村の子・駒若丸だったことが明らかになり、駒若丸は出仕を即中止の上、即・謹慎と相成った。

八幡宮の宿直業務は頼朝卿以来の御家人の重要任務の1つだったが、このような恥辱にまみれた事件が生じたことから宿直警護そのものが廃止されるという結果を生んだ。

一説に三浦義村が実朝暗殺のため、邪魔な警護を排除したとする見方もある。(ただ、実朝が暗殺された当日は境内奥まで入れたのは高位の文官だけだったとも。)

公暁の微動 ピクっ

12月5日、公暁は4代目八幡宮寺別当に就任直後、上宮にて千日参籠したまま一向に出て来なかったが、いくつかの祈請を掲げつつも、髪は下ろすことはもとより、ヒゲも剃らなかったことから周りの者は不審がった。

そんな中、公暁は白河義典を奉幣の使者に任じて伊勢太神宮(伊勢神宮内宮)へ送った。

身勝手に独断で以って奉幣の使者を突然、なんの前触れもなく伊勢神宮へ送りつけたのが最大の不振といえば不振。

いったい何の大願成就を願ったのか?

もしくは何の目的で送ったのか?(この理由は未詳とされる)

白河義典とは?

この白河義典(白川とも)は公暁の家人であり、公暁の死を耳にした途端、自害したと云われる。

なにせ鏡にもほぼ名前が見えないことから謎多き人物とされるが、続群書類従によると父親は相模の名族・波多野氏出自の宇治義定とされ、曾叔父を波多野義通とする。

一方の母親の血筋はというと筑後権守俊兼(藤原俊兼)の娘の嘉陽門院越前(著名な歌人)と称し、源頼朝卿の初期の右筆を務めた人物である。(内宮祢宜の荒木田系図によると荒木田盛長の娘という説もある)

なお、嘉陽門院越前の系図は複雑で一般的には伊勢神宮大宮司家の大中臣公親の娘としても知られ、後鳥羽院と坊門局(坊門信清の娘)との間に生まれた嘉陽門院礼子内親王に仕えた女官とされる。

以上の見解を以って公暁は母方の血筋を頼って実朝亡き後に到来するであろぅ、自らの御代(将軍位継承)の助勢を願ったのではないかともみれる。ウンちゃ ….アラレちゃん? なつかしっ

この白河義典は公暁が死した翌日に自害しているが、これがもし真実であるとするならば、公暁の実朝暗殺計画を知っていた可能性が充分にあり得る。…アリエールの落ち具合どぅ?

そしてここから見えてくる事実というのが、公暁の単独犯説が浮上してくるということ。

1219年(承久元年)正月25日、源頼茂が八幡宮に参籠す

1219年(承久元年)正月25日、在京御家人衆の1人・源頼茂が京師より下向の上、八幡宮へ参籠す。

突然の参籠の理由は、なんでも前夜、拝殿で読経している際、一瞬ヨロめいて眠っちまぃ、突如、脳裏に現出した悪夢に基づく。

その夢の中では一羽の鳩を杖で殴打する子供が居て、鳩を殺し終えるとニヤつきながら今度は自ら(頼茂)の方へやってきて狩衣の袖を打ちつけてきた。

頼茂はウぇぇぇぁぁぁグギゃぁぁ!‥☆○▲◇□‥‥とラリりはじめて、その瞬間、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに急にパッ!と目が覚めたのだった。

気を取り直して拝殿を出た頼茂は、再び腰を抜かして尻モチをつくことになる。

先ほどまでは無かった鳩の死骸が目の前にあるのを見つけ、思わず腰を抜かして歩けなくなってしまった。

居てもたってもいられずに占いに頼ったところ、「不快」という結果になったので、その不安を取り除くべく、参籠に到ったのだった。

だがしクぁし!

この時の「不快」の意味を後で心身に沁みるほどに思い知らされることになろぅとは、この時の頼茂は夢にも思わなぅぃ。

公暁の始動!ヤマト発進! そして‥「実朝の暗殺」

『出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ』

‥‥1219年(承久元年)正月27日 午後6時、積雪止まぬ中、自邸を出た実朝は、お得意の歌詠みを一首、詠じると、大納言忠信以下5人の公卿、ならびに1000騎もの隋兵を随伴させて鶴岡八幡宮寺を目指し、参進を開始した。

そぅ、この日はついに父・頼朝すらも叶わなかった右大臣にまで昇り詰めたその拝賀式典の日となる。

朝から晴天の雲1つなき青空が広がっていたが、夜になると急に冷え込んで豪雪となり、二尺余り(7、80センチ)もの積雪となった。

 積雪のせいもあったのか隋兵1000騎もの行進ということで、わずか10分足らずで行ける距離に2時間近くも要し、実朝が八幡宮の本宮前の楼門へ差し掛かった時には戌ノ刻(午後7時頃から午後9時頃までの間)になっていた。

そして、実朝が八幡宮の楼門をくぐり抜けた時、冷え込みが過ぎたのか?はたまた下痢便が少し漏れちまったのか、突如、御剣役(実朝の剣を持つ役)の北条義時が体調不良を訴えて、御剣を文章博士(もんじょうはかせ)の源仲章(みなもとのなかあきら)へ渡し、隊列から離れた。

源仲章とは❓

源仲章は宇多源氏の出自。左大臣・源雅信の後裔でもあり、河内守・源光遠の子。

院近臣家の出自ながら源氏氏族であることから鎌倉幕府の在京御家人衆に列する。

鎌倉へ下向した後の1206年(建永元年)頃より、源実朝の侍読(教育係)となり、御所付近に邸宅が与えられた。

実朝はいよいよ本宮へ入り、儀式を終えて出てきた頃には、辺りはスッカリかりかりカリフラワーの盛り盛り具合の如くにスッカリと真っ暗くら寿司状態になっていた。2回ヒネらんでエエから

実朝は楼門を出てきて石段に差し掛かったその時突如、どこからともなく公暁が現れ、実朝に斬りかかり、いとも容易く首が取られた。

公暁は次に源仲章に斬りかかり、これを斬殺する。(愚管抄では北条義時と誤殺したと書き記す。)

実朝に従した者(公卿)たちも数人居たが、突然の出来事に慌てふためき、『皆、蜘(くも)の子を散らす如くに、公卿、何(いずれ)も逃げにけり』などと愚管抄に記されるように将軍である実朝の御身はそっちのけで我先にと早々に退散したとも云われる。

実朝が斬られた後、近くにいた武田信光以下、隋兵1000騎が境内へ一斉になだれ込んだが、実朝の胴体にはすでに首がなく、犯人の姿はどこにも見当たらなかった。

吾妻鏡では、駆けつけた御家人の中に公暁が実朝の首級をあげた後、「我は公暁!父(頼家)の仇を討ったり!!」‥‥などと名乗りをあげたと報告する者がいたとのことで、すぐさま公暁の捜索が開始された。

なお、愚管抄では御家人衆はじめ、隋兵も境内入口付近にいたことから、名乗りの声など聞こえるハズもなく、変事が起こったことも分からなかったと記す。

公暁の隠れイチョウ

公暁の時代、実朝暗殺の有名な舞台として、天にも届きそうなほどのイチョウの巨木が社壇(石段/大階段)脇に生えており、一説に公暁がこのイチョウの幹に隠れ潜んで実朝が楼門から出てくるのを待ち伏せしたというエピがある。

しクぁしながら、これは江戸時代に歌舞伎などの演目になったことから広まった俗信であり、事実ではないとされる。(事実、実朝暗殺を記す史料にはイチョウは出てこない)

なお、このイチョウの巨木は2010年(平成22年)3月10日の強風によって倒伏した。 

行方知れずとなった公暁

実朝が拝賀の儀式で上宮に籠る間、御家人衆や隋兵たちは境内の入口付近にて控えていたが、実朝に異変があったことを知ると慌てて石段を駆け上って公暁を探しまわったが、とぅとぅ公暁を見つけることはできなかった。


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別当坊への襲撃

御家人衆は公暁が居処としていた別当坊への襲撃を試みたが、残念無念なことに別当坊は、もぬけの殻だった。

とぅとぅ探す当てがなくなると、御家人たちは肩を落とし、落胆しながら退散する。

備中阿闍梨の坊舎への襲撃

なお、この当時、鶴岡を管理していたのは二十五人の供僧たちであり、当時の一般御家人たちは供僧たちの組織内部のことなど知る由もなく、このため「備中阿闍梨」と称する公暁の後見者がいたことにまで頭がまわらなかったとされる。

このため備中阿闍梨は逃げおおせることができたのだった。

公暁のその後の軌跡

現在に到るまで様々な研究が進み、公暁のその後、もしくは死因についても他説あり、実のところ定かではない。

以下は吾妻鏡に記される内容となる。

実朝の首をゲッチュ💋した公暁は実朝の首を手持って後見人である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の屋敷へ赴き、供された料理に口をつける。

食事する間も実朝の首を手から離さず、片手で膳を平らげた。

膳をクソ腹にクソほど収めきった後、公暁の乳母子(めのとご)となる弥源太をクソほどに召喚し、以下の言葉を三浦義村へクソほど告げるようにクソほど命じた。クソの世界へいらっしゃ〜ぃ

「将軍実朝は今日今を以って亡くなられ、将軍位は空位となった。我は2代将軍頼家の嗣子たる御身ゆえに、早々に将軍位に擁立する計略を講じよ。」

‥‥‥そぅ言い放って、弥源太を義村の館へ送ったのだった。

公暁が三浦義村を頼った理由とは?

吾妻鏡によると義村の子・駒若丸は公暁の門弟であることから、そのヨシミを頼ってのことだろぅと記す。(三浦義村は公暁の乳母夫という説もある)

つまり、義村であれば自らを支える良き片腕になってくれると信じたとみれる。

三浦義村の躍動

弥源太を通じて公暁の言葉を聴き届けた三浦義村は、速やかにこぅ返答した。

『さすれば当家より迎えの者を出すが故、当家に来られたり。』

‥などと返答しつつも、すぐさま義時にも事の次第を報告した。

義時は直ちに『阿闍梨(あじゃり/公暁)誅し奉るべし!』と公暁を謀反人として討伐するように義村に命じると、義村は長尾定景以下5人の配下に命じて公暁を討ち取るように命じた。

一節に公暁は僧兵に位置付けられるように一介の僧侶にあらず、武具を自在に操れたことから、三浦家中でも勇名で知られた長尾定景を刺客に任じて5人の配下を付けたとも云われる。

こぅして定景らは義村に会うために山(大臣山/鶴岡八幡宮の後方にそびえる山)を越えてやって来た公暁の姿を確認すると、定景麾下の雑賀次郎(さいかの じろう)が組み討ちを仕掛けて、定景が公暁の首級をあげ、義時邸へ送り届けた。公暁、享年20歳。

なお、この義村が差し向けた刺客の中に武常晴(たけ つねはる/三浦氏一族)という武士がいて、常晴が実朝の首だけを山中で見つけて波多野荘(御家人・波多野氏の所領)に首塚を築いて葬ったという異説もある。

以後の公暁の首と胴体 or 実朝の首がどぅなったのは未詳とされる。(幕府では「実朝の首の行方は知れず」として処理し、鏡では実朝の髻(遺髪)を首の代わりに胴体と共に勝長寿院(しょうちょうじゅいん)に埋葬したと記す。)

公暁の関係者の取り調べ

北条政子は実朝騒動の余韻も冷めぬ当日の夜半過ぎ、至急、御家人たちを招集して今日中に公暁の残党を捕縛せよと命じた。

そしてまず、目をつけられたのが、わずか一時だったが公暁の師となった鶴岡供僧の「蓮華坊・勝円」だが、彼は北条義時邸へ召喚され、拘留と相成った。

勝円は翌日の尋問の際、こぅ弁明したのだった。

『別当と供僧が祈祷を行ぅ際、個別に執り行うことになっています。それゆえ別当の罪と供僧とは関係がなぅぃ。』

『公暁が師である三位僧都・貞暁が他界した後、私は政子様から貞暁(頼朝卿の子の貞暁ではない)の後継として公暁の師に抜擢され、真言を少々お授けしました。』

『しクぁし!残念なことに公暁は学問嫌いで私は疎まれたこともあり、それ以来、近づけませんでした。』

『疎んだ私に公暁が自らの胸中や計画をお話しになるでしょうか』

これを聞いて政子と義時は、勝円は本件との関わりなしと判断した。

29日には、宿老の永厳坊・定豪、安楽坊・重慶ら5人が尋問を受け、本件には関わりなしとされた。

なお、同日、公暁の後見人であった備中阿闍梨の雪ノ下の屋地ならびに所領は幕府より収公と相成った。

ところで‥‥‥「備中阿闍梨」とは何者?

吾妻鏡などの史料では「備中阿闍梨(びっちゅう あじゃり)」とだけ記されるように、その正体は未詳とされる。

阿闍梨とは密教における指導的立場の僧位を意味する。つまり、名前は判然とはしないものの備中(現在の岡山県西部)出身(もしくは備中内の寺院などに縁のある)の阿闍梨ということになる。

鎌倉の中心部たる雪ノ下に屋地や所領を与えられていることや、公暁の後見となっている事実から察しても、中央でもある程度、名前の知られたそれなりの立場にあった高僧だと推測できる。

これはあくまでも私見にはなるが、公暁は物心つくまで父・頼家が殺されたことを隠されていた(秘密にされていた)のではないか?

父が暗殺されたことを知れば当然、反逆心‥‥‥というか恨心が芽生え、それは禍のタネになる。

おそらくそれを望まない政子はあの手この手と手を回しつくしたのではないだろぅか。だからとりあえず寺へブチ入れた。可愛い💕孫の不幸を誰が喜ぶ。

現在でも反抗期という言葉があるように18歳頃といえば何にでも興味を示し、暴れまくりたくなる今日この頃なムフぅん年・齢💕 ムフぅん

そんな公暁の純真無垢な心を弄ぶが如くに火をつけた人物がいるのではないのか。

公暁の家人であった白河義典は主人の死の翌日に自害したの対し、公暁の後見人たる備中阿闍梨は公暁が討たれた後、早々に姿をくらましている事実を以って、その黒幕的ウっヒっヒ〜‥な人物を知っていたのではないか。(もしくは繋がっていた)

‥‥というわけで長くなるので備中阿闍梨の生い立ちや、人物像、実朝暗殺劇のその後‥などについては分かり次第、このページに追記しておくとする。

このページを放っておけない、痛いげな諸君は‥‥要チェックや!by.彦一

2月1日までには公暁がらみの人物はすべて誅殺or処罰された

2月1日には八幡宮に奉仕する供僧の浄意坊・良祐に、10時間”加湿”した部屋のムンムン具合の如くに、”過失”があったと訴えた者がいた。

その取り調べの結果、公暁の一件には関与していないことが明らかとなり釈放と相成った。

2月1日を迎える頃までには実朝暗殺の処理は一通り、完了していたことになる。

平家一門の供僧が無実の加担罪で処罰される!

二十五坊(鶴岡二十五口)の供僧は別当職にある僧が自らの人選にて決めることから、もし別当に何らかの嫌疑がかけられた際には、供僧にもその嫌疑(被害)が及ぶ。

実はこの当時、平家一門の以下、三坊にも嫌疑がかけられ、改替された(更迭)と鏡は記す。

  1. 円乗坊
  2. 浄蓮坊
  3. 静慮坊

これら平家一門の出自たる三坊(3人の僧)は、公暁と共に実朝殺害に荷担したと見なされたことになる。


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備中阿闍梨の屋地が「三条局」へ下賜される

考えてみれば備中阿闍梨の所領も本来ならば二十五坊に帰すべきところだろぅ。

それが呆気なく没収されたことになる。

しクぁしながら、どういうわけか幕府女官の三条局(さんじょうのつぼね)に備中阿闍梨の屋地が与えられた。

三条局とは頼朝卿の母方の従姉妹にあたる人物であり、法橋・範智(第20代熊野別当)の娘でもあり、縫殿別当(ぬいどのべっとう/衣服の製造・修繕の監督職)を務めた人物でもある。

1221年(承久3年)、その三条局に与えた備中阿闍梨の屋地が北条義時の妻の産所ともなったエピはあまり知られていなぅぃ。

「熊野別当」とは❓

ちなみに「熊野別当(くまのべっとう)」とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を統括した役職。

熊野三山の別当および社僧たちは朝廷(天皇)とは密接な関係にあり、いわば国家祭祀における一定の権限を有した。(中央の僧綱制にも連なった)

他、熊野水軍などの軍事組織を有するなど、敵に回すと少々、厄介な勢力だった。熊野別当はこれらの組織をすべて掌握した。

1219年(承久元年)2月11日「阿野時元の挙兵」

公暁とは直接的な関係はない話にはなるが、源義朝の七男であり、頼朝卿の異母弟でもある阿野全成(あの ぜんじょう)の遺児・時元が実朝の死を知るや否や次代将軍位を希求し、実朝暗殺の翌月となる1219年(承久元年)2月11日に所領の駿河にて挙兵したとの知らせが幕府へもたらされた。

この知らせを受けた執権・北条義時は直ちにこれを討滅すべく、北条被官(侍所所司)の金窪太郎行親(かなくぼ ゆきちか)を差し向けたが、時元は力量不足で兵が集められず、呆気なく討ち取られた。(吾妻鏡)

この時元の死により公暁を含めた頼朝卿および、その兄弟たちの男系の血筋は途絶えたことになる。

史料に記される公暁の死因一覧

史料史料概要
死因
吾妻鏡
(あずまかがみ)
正安2年(1300年/鎌倉時代末期)頃に成立。
鎌倉幕府側の公式史料。
作者未詳。
三浦館に赴く途中に義村の命を受けた長尾定景に斬殺の上、斬首される。
承久記
(じょうきゅうき)
承久の乱を記した公武の合戦記。
成立時期は鎌倉中期頃〜
作者未詳。
逐電(逃亡劇)の末、行方不明
西御門で犬に噛み殺される
三浦館の鮨坂の際(きわ)
承久軍物語
(じょうきゅういくさものがたり)
1624〜44年(寛永年間)頃に成立。
承久記の異本でもある。
作者未詳。
山中にて(大臣山とも)
保歴間記
(ほうりゃくかんき)
1356年(延文元年/南北朝時代)頃に成立。
作者は未詳(足利方の武士とも)。
三浦館で義村が刺殺
八幡山にて餓死

三浦館の場所はドコ?

ここでの三浦館の場所とは鶴岡八幡宮近く、大倉幕府との間に建っていたと推定される。

現在、横浜国立大学教育学部 附属鎌倉中学校のグラウンド(運動場)もしくは西御門旧跡碑のあたりに比定。

鮨坂の場所はドコ?

「鮨坂」と呼ばれる場所も現在となっては不明。

八幡山はドコ?

そもそも「八幡山」と呼ばれる山が、どの山を指すのかが不明。

大臣山のことか❓

公暁のその後(死没した場所or死因)をまとめると‥‥

種々の史料を見ていくと、公暁は鶴岡八幡宮後方にそびえる大臣山、もしくは西御門付近で死没した確率が高いとみれる。

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