【ご利益は勝運❗️御朱印は…】白旗神社の歴史|頼朝の墓(法華堂跡)

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白旗神社【国史跡】

  • 御祭神:源頼朝公
  • 国史跡指定年月日:1927年(昭和2年)6月14日
  • 例祭日:1月13日

白旗神社の歴史

白旗神社の創祀は鎌倉時代ではなく、明治時代初期と伝えられ、比較的、近世に建てられたことになる。

白旗神社の上、小山の頂には頼朝卿の墳墓があるが、鎌倉時代には頼朝卿の御霊を奉斎した法華堂が建っていたが、星霜経る中でこの法華堂は廃絶する。

さらに時代が下って江戸時代になると、現在の頼朝の墓所入口に建つ白旗神社の場所に「法華堂」という寺院が再興される。

この法華堂は旧鶴岡八幡宮寺・二十五坊の相承院(そうしょういん/当時は京都仁和寺の末寺)の所管のもと、堂内には如意輪観音像や地蔵菩薩像、跋陀婆羅尊者像などが安置され、相承院の寺僧が管理していたとされる。

法華堂内部では頼朝卿の御霊を供養し、墳墓を護るという役割があったが、明治初頭に発せられた神仏分離令により様相が一変する。




江戸時代の相模風土記に見る頼朝の墓の様子

この墨絵は江戸後期のもの。

注目すべきは左下の方形造りの堂(右)と、その左の入母屋造の建造物。

寄棟造(よせむねづくり)の建造物は今はもう見られないが、現在は代わりに白旗神社が建つ。

入口に見える案内板と思わしき建造物の場所には現在、頼朝卿の顕彰碑の説明板がある。

特に気になるのが方形造りの一宇。

この一宇こそが江戸時代に再興された法華堂と見られるが‥‥。だとすれば内部に3躯の仏像(如意輪観音像、地蔵菩薩像、跋陀婆羅尊者像)を安置し、頼朝卿の御霊を供養していたとされるが‥‥‥かつてのように頼朝卿の御影(画像)を掛けて奉祀していたのだろぅか。

‥‥いずれにせよ現在は二宇ともすでになく、寄棟造の二層の建造物が白旗神社へ置き換わっていることになる。

頼朝卿を奉斎する白旗神社(鶴岡八幡宮境内にもある)

明治初頭に現在の白旗神社が誕生する!

1872年(明治5年)、法華堂は神仏分離令のもと、頼朝卿の墓所と分離されることが決定する。

そこで新たに鶴岡八幡宮の白旗神社から神霊を当地に配祀し、新たに白旗神社を建造し、頼朝卿の御霊を白旗大明神として奉祀するに到る。

つまり、厳密には現在の白旗神社は旧法華堂ということになり、現在の白旗神社の前身であったことになる。

この時に境内地を「法華堂跡」とし、これが後に国の史跡指定を受ける運びとなり、現在に到る。

現在の白旗神社は昭和時代に再建されたもの!

現在の白旗神社の社殿を見ても分かるように比較的に新しい佇まいをしているが、白旗神社の案内板によると現在の社殿は昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって建てられたものとする。

白旗神社の境内の様子

「白旗大明神」と書かれた標柱

表側には「白旗大明神」、その裏側に「昭和三十八年 四月吉日」「頼朝公 報恩会」「鎌倉祝光○会」という陰刻が見える。

昭和38年にこの標柱を「頼朝公 報恩会」「鎌倉祝光○会」が建献したことになる。

源頼朝公法華堂之舊蹟

「源頼朝公法華堂之舊蹟(みなもとのよりともこう ほっけどう の きゅうせき)」と読む。

「法華堂」「源頼朝」「武皇嘯源大禅門」「正治元年正月十三日(頼朝卿の死没日)薨去」などの陰刻が石碑側面に見える。

「武皇嘯(粛)源(原)大禅門(ぶおうしょうげん だいぜんもん)」は頼朝卿の諡号(法号)になる。

意味
  • 武皇:武士の皇(偉大な主)
  • 嘯(粛)原(源):原(野)で豪語する。(この場合の「原野」とは「荒廃した土地=戦乱」を意味するものと思われる。
    つまり、「戦乱を収め全国を平定し安寧を築き上げた武士の王」と解釈できる。
  • 大禅門:(仏門に)入道した男子のこと。戒名に使われる言葉の1種。(頼朝卿は死去直前に髪を下ろしている)




大森金五郎の歌碑

『君出て、 民もしづまり 九重の塵もをさまる 卋(世)とはなりにけり』

意味(翻訳)

治天の君(頼朝卿のこと)がいたからこそ、世も平和になり、戦の土埃(戦争)もなくなる世となった

‥‥‥などの意味合い。

源頼朝公顕彰碑

案内板の解説

歌碑は我が国中世史の権威であり、源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。

戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保障すると共に時の朝政をほしいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不出世の英雄・源頼朝公をたたえたものである。

顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。

平成十二年七月十二日 源頼朝会

毎度おなじみ!鎌倉青年団の「法華堂跡」の石版(石碑)

 

碑文の内容

法華堂跡

堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ
頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル建保五年五
月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時
将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ
實治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ
北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎
等五百餘人ト偕ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染
メシ處トス

大正十三年三月建
鎌倉町青年團

※邀(まちうける)
※矢盡(矢が尽きる)
※滿庭(まんてい/全体に満ち)
※朱殷(しゅあん/血のような暗い朱色)




忠魂碑

忠魂碑(ちゅうこんひ)とは、主に明治維新後の戦争や変事にて正義の戦死を遂げた地域出身の兵士たちの鎮魂のために建献された記念碑のこと。

「陸軍中将 寺内正毅(てらうち まさたけ) 書」と刻銘が見える。

寺内正毅 揮毫の忠魂碑は全国にいくつもある。これはそのうちの1つであろぅ。

おそらく日露戦争の戦死者の鎮魂のために建献されたものと思われる。‥‥‥しかしなぜこんな奥に❓場所がなかったのか。

白旗神社の本殿

境内最奥には白旗神社の本殿が佇む。

一間社流造の銅葺、大棟に千木を用いず鬼板を据え、基礎部分に亀腹を用いるなど和様仏式の意匠も見える。

昔は木々が繁茂する自然豊かな場所だった

往時の法華堂(現在の頼朝卿の墳墓)および、その周辺は木々が繁茂する自然に恵まれた場所と伝わる。

吾妻鏡によると1186年(文治二年)のこと。現在の頼朝卿の墳墓の高台には狐の棲家があって狐の子供が大蔵御所内の頼朝卿の御帳台(ちょうだい/寝所)にまで入ってきて来たことが記される。

現在は白旗神社が鎮魂社として墓の手前に佇む。

前述したように江戸時代にはこの場所に入母屋造の建物が建っており、その建物は法華堂と呼ばれてい‥‥‥申した。アウっアウっ (訳:”アウっ”=”早くビールとレモン酎ハイ‥” / ”アウっ”=”流し込みたいよぅ💘)

 

 

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