江の島岩屋洞窟
洞窟の長さ
- 第一岩屋:入口から最奥まで152m
- 第二岩屋:入口から最奥まで56m
形式
- 海蝕洞窟
管理者
- 藤沢市
江の島岩屋洞窟(岩屋本宮)とはどういうところなのか?
江の島岩屋洞窟は、江の島の最南端、最も奥にあたる場所にある海に面した洞窟です。
往時は江戸時代に大流行した江の島信仰の中心となった本宮(岩屋or龍穴)」と呼ばれた場所であり、江島縁起ではこの洞穴にはじめて弁財天が垂迹(すいじゃく/=現出すること)したとされる聖地です。
奥津宮から歩いて約10分。江の島弁財天信仰の発祥の地であり、江島神社の発祥地でもありまする。
内部は夏でヒンヤリと涼しく外気温が33度くらいあっても洞窟内は25度くらいです。冬になると逆にあたたかく、常に20度前後が保たれているような印象を受けまする。
内部に入るとこの摩訶不思議な洞穴ができた理由や、この洞窟にどのような人物が来たのか?また、この洞窟で過去にどういう信仰が起こったのか?
‥‥などなど、岩屋洞窟についてのアレコレをあらゆる尺度から学ぶことができまする。
歴史好きであれば、洞窟内の係員に質問することで、いろんなことを教えていただけます。
それ以外にも江の島のイルミネーションや江の島灯籠などのイベント時には、洞穴内部でも同様のイベント(装飾)が行われます。
つまり、1度来て終わりではなく、季節ごとに訪れることで、それぞれ違った楽しみ方ができるということでゴンす。
江の島岩屋洞窟(岩屋本宮)の歴史!
奈良時代
699年(文武天皇3年)、役小角(役行者)が参詣す
「続日本記」によれば、699年(文武天皇3年)、役小角(えんのおづの:飛鳥時代の修験者=役行者)が一言主の讒言(ざんげん)により、伊豆に配流の身となります。
その翌年のこと、金窟(岩屋のこと)上空に吉兆とされる紫雲がかかっているのを見て、当地を訪ね祈念したところ、生身の天女(現在の弁財天)が現出し、国土安泰のために鋭利な刀剣を金窟(岩屋洞窟)へ奉安したとあります。
平安時代
723年(養老7年)秦澄大師が参詣す
江島縁起によれば、723年(養老7年)に著名な越前の修験者「秦澄大師(たいちょう)」が江ノ島へ来島し、天女(現在の弁財天)に大乗経を奏じたとあります。
814年(弘仁5年)に弘法大師・空海が来島し本宮を創建す
814年(弘仁5年)、江島縁起では弘法大師・空海が東国巡礼の折、この金窟(江ノ島岩屋)へも立ち寄り、7日間の参籠の後、天女(現在の弁財天)が現出したと書き記されています。
その後、5本指を揃えた幅の小さな弁財天像を手彫りし、さらに本宮(お堂)を築いてその中に弁天像を奉安したとあります。
853年(仁寿3年)円仁(慈覚大師)が参詣す
江島縁起によれば、叡山の高僧「円仁」も金窟へ来訪し、37日間(21日間)参籠した後、現出した天女(現在の弁財天)を拝したとあります。
天女に拝した後、五寸の弁財天像や仏舎利など諸品を金窟(江ノ島岩屋)へ安置したとあります。
なお、縁起によればこの時、円仁は岩屋上の山の頂に社殿を設け、これが後に「上之宮」と呼ばれるようになったという話です。
つまり、縁起では現在の奥津宮の創建は円仁によるものだということです。
以上は、すべて江島神社に伝承される江島縁起の真名本に記述された内容によるものです。
※注釈※江島縁起は実は他に岩本院に伝えられたものが数冊ある。真名本こそが江島神社に伝えられたもの。
鎌倉時代
岩屋の創建説「吾妻鏡の説(史実として有力視)」
実はこの江の島岩屋のみならず、江の島の過去のことが書かれた文献はいくつかあり、どれも内容が異なっています。中には史実とはとても言い難い伝説のような物語のような説もありまする。(後述)
ただ、どのような経緯で江の島に弁財天がもたらされ、そこからどうやって江の島信仰が始まるのか?‥‥などの、一連の事象を忠実に記した旧書は現存しておりません。
現存する上で確かな史料と認められているのが、「吾妻鏡(あずまかがみ)」に記載された1182年(寿永元年)4月5日条の項にあります。
この内容に拠れば、鎌倉幕府の創始者である源頼朝卿が京都高雄神護寺の文覚(もんがく)上人を招き、江の島に大弁財天(八臂弁財天)を勧請し、さらに現在の奥津宮へ鳥居を奉納し、鎮守府将軍「藤原秀衡」を調伏させるために祈祷に臨んだとあります。
吾妻鏡によればこの折、文覚に21日間祈願させたことが記されています。
江戸時代になると、この八臂弁財天像が勝運守護の神として武家や庶民からも広く信仰が寄せられることになり申す。(現在は辺津宮の奉安殿内部にて安置※有料で一般見学可能)
すなわち、これが史実においての江の島信仰の起源とされるものです。
1208年(承元2年)6月16日
この江の島岩屋洞窟がいつ頃から霊的な聖地として見られるようになったのか?‥‥についてですが、史実によれば、吾妻鏡の1208年(承元2年)6月16日の条項に見られまする。
なんでも、「祈雨の修法」を執り行う場所として龍穴に鶴岡八幡宮寺の供僧が奉仕したとのこと。
1224年(元仁元年)6月6日
次いで、1224年(元仁元年)6月6日にも祈雨の祈祷を執り行ったとの記述が見え、他にも文献上では特に言及はされていないようですが、降雨がない日が続くと度々、この龍穴にて同様の祈祷が行われていたようです。
1269年(文永6年)には蘭渓道隆も参籠
1269年(文永6年)には、北条時宗の招聘により蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が来朝し、鎌倉五山の建長寺・円覚寺をはじめとした諸寺の住職に就任しますが、この後、この江の島の龍穴(岩屋)へも立ち寄り、100日間、参籠したと記されています。
1282年(弘安5年)には一遍上人も参詣す
1282年(弘安5年)3月1日、巨福呂坂から鎌倉入りしようとした時宗の高僧「一遍上人(いっぺんしょうにん)」は、8代目執権「北条時宗」により、鎌倉入りを拒まれます。
このため、江の島付近の片瀬にて踊り念仏を行ない、片瀬で布教を行ったと伝えられています。
その折、この江の島へも参詣したと伝えられています。
江の島島内のお岩通りにある「一遍上人の島井戸」は、まさに一遍が江ノ島へ来島した事実を示すもの。
なんでも、飲み水に貧していた島の領民に対して掘ったとのこと。
室町時代
室町時代初期に江の島が独立する
室町時代以前は江の島は鶴岡八幡宮寺の所管でしたが、室町時代になると江の島に「上之坊、下之坊、岩本坊」という3ヶ寺が設けられ、鶴岡八幡宮寺から江の島の所管がこの3ケ寺に移譲されます。
ちなみにこの3ケ寺が現在の辺津宮、中津宮、奥津宮の起源です。
江戸時代
1600年(慶長5年)6月に徳川家康公が参拝す!(江の島詣ブームの起源)
1600年(慶長5年)6月、徳川家康が息子であり、後の2代目将軍となる秀忠の病気平癒のために参拝に訪れます。
この後、秀忠公は回復、以後、将軍家の祈祷所となり、代々の将軍が参向するまでに至ります。
将軍家の祈祷所という背景もあり、やがて大奥や諸大名たちも遅れじと、江の島信仰を顕にし、これがやがて江戸時代に起こった空前の江の島詣ブームを巻き起こす要因ともなります。
江戸時代にお伊勢参りと並ぶほどの人気を誇った「江の島詣」
その後、江戸時代になると江の島には三カ所に弁財天が奉斎されていました。
- 本宮(岩屋)
- 上之宮
- 下之宮
これらのそれぞれの宮には異なる弁財天像が奉安され、それぞれ祭祀を執り行う主催者が取り決めによって定められていたとされています。
これを三坊(坊中)と呼び、本宮は岩本坊(のちの岩本院)、上之宮は上之坊、下之宮は下之坊が、ぞれぞれ担当していたようです。
この中でももっとも発言力が強く、権勢を誇ったのが江の島における別当職に任ぜられた「岩本坊(のちの岩本院)」です。
※注釈※岩本坊(岩本院)は現在、青銅の鳥居近くにある旅館「岩本楼本館」の前身」
岩本院の誕生と仁和寺(京都)門跡の岩屋参詣
前述の通り、江の島は3つの坊が分かれて、それぞれが単独で坊を取り仕切っていたことから、争いが絶えませんでした。
当時は岩本坊が島内を牛耳っていた恰好でしたが、特に下之坊の反発が強く、自らが島内の覇権を掌握しようと画策します。
しかし、この動きを察知した岩本坊は代々、門跡(皇族)を住職に仰ぐ、京都仁和寺の末寺になることで権力をかさにし、それを防ごうとする動きに出ます。
度重なるご機嫌うかがいの末、念願の仁和寺の末寺として認められると、やがて寺号に院号を持ち出し、名を「岩本院」へと改めています。
1615年(元和元年)ご開帳が行われる
1615年(元和元年)、文献上初見となる、本宮岩屋秘仏の居開帳が執り行われています。
1650年頃から参拝者が急増す!
1650年頃になると、岩本院を核に据えた江の島は島内の秩序・支配体制が盤石化し、今度は御師たちを介して各地をめぐらせ、江の島信仰を拡散していくことに力が入れられるようになります。
やがて御師たちの流布によって江の島信仰が広まると、空前の江の島参詣ブームが巻き起こります。
このような御師たちによる信仰の増大の有り様は、かの「お伊勢参り」と類似しています。
なお、この当時、岩本院を筆頭に据えた江の島は「金亀山 与願寺」という名前の1つの寺院であり、青銅の鳥居をくぐった所にあった絵図屋(現在の堀江商店)では、島内の地図を販売しており、次のような記載がみえます。
- 岩屋本宮(御窟/おんいわや):岩屋のこと
- 本宮御旅所:奥津宮のこと
- 上之宮:中津宮のこと
- 下之宮:辺津宮のこと
この頃、「下之坊(辺津宮/下之宮)」は宿坊でもあり、廃仏毀釈後は旅館業として、「岩本楼」「金亀楼」「恵比寿楼(現「恵比寿屋)」と名称を変えています。
⬆️「上之宮」の文字が見える。その右下に消えかかっているが「下之宮」の文字が見える
そして、このように岩本院が江の島を事実上、完全に掌握する恰好になると、岩屋内部や道中の参道が整備され、多くの参拝者を出迎えやすくしています。
ちなみに現在、アイランドスパのある場所には「二見館」という旅館が建っていた事実は地元民以外なかなか知られていない事実です。
1657年御旅所(本社)が造営される!
岩本院に残された記録によれば、1675年(延宝3年)正月、江の島の山頂に「御旅所(現・奥津宮)」の造営を開始したとの記述が見えます。
この理由としては、洞穴内に安置した宮殿(くうでん/仏像を安置する豪華な仏壇のようなもの)が雨潮にさらされたためだと記されています。
御旅所の完成後は岩本院の主導により、本宮の例祭が開始されており、この例祭によって洞穴内の宮殿から御神体を御旅所(本社)へ遷座(移す)したようです。
江戸時代の岩屋には海水が浸水した!
往時は夏になれば岩屋に海水が入ったとのこと。このため、旧暦4月~10月の間は岩屋本宮の神様を山の上の御旅所(現在の奥津宮)に移して奉斎していたと伝えられています。
1675年(延宝3年)本宮岩屋および御旅所の造替が執り行われる!
本宮岩屋および御旅所の造替が執り行われる。白銀100枚、女中・御年寄り取次し奉納する。
1676年(延宝4年)にもご開帳が行われる
1685年(貞享2年)にも本宮岩屋秘仏のご開帳が執り行われています。
1685年(貞享2年)にもご開帳が行われる
1685年(貞享2年)にも本宮岩屋秘仏のご開帳が執り行われています。
1689年(元禄2年)には三社同時のご開帳が行われる!
1689年(元禄2年)には、本宮岩屋秘仏のみならず、他の2社(上之坊・下之坊)を合わせたご開帳が執り行われています。
1717年(享保2年)に本宮岩屋遷座の神事が再興される!
かつて岩本院には、鶴岡八幡宮寺(現・鶴岡八幡宮)より楽器や神器、神輿が伝えられていたようですが、これらを焼失したため、再び、楽器や神輿を新調しています。
管弦楽器が鳴り響く中、神輿行列が進むというド派手、且つ、盛大に祭典を盛り上げ、江の島詣の流行という油に火を注いでいまする。
1722年に京都から仁和寺門跡が参向する!
1722年(享保7年)3月15日、江戸に参向した仁和寺門跡は、その帰りにこの江の島へも立ち寄り、岩本院での昼食のあと、この岩屋へも参詣しています。
江の島岩屋洞窟が描かれた江戸時代の絵図
空前の人気を誇った江戸時代の江の島詣の様子は、その時代の絵師たちの作品にも描かれています。
以下、画像引用先:国立国会図書館
相州江の島弁財天開帳詣本宮岩屋の図(作:歌川広重)※板元:住政
江の島を岩屋側から描いた作品。1844年(弘化4年)~1853年(嘉永5年)の弁財天のご開帳詣。
相模 江之嶋 岩屋ノ口(六十余州名所図会)(作:歌川広重)
全国各地の景勝地を描いたもの。相模国は「江之嶋 岩屋ノ口」として描かれている。
相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図 ※板元:住政
同時に江戸の四谷傳馬町二丁目の住吉屋政五郎から出版された作品。「相州江の嶋弁才天開帳詣本宮岩屋の図」「江の嶋弁才天開帳詣」と合わせて開帳3部作。
描かれているのは4組の女性の講中。特に6年に1度の弁財天像ご開帳の時は、ひときわ賑わった。
江の島が描かれた絵図には、こうした女性がよく描かれているのですが、これは絵としての美学で女性を描いたのではなく、当時はまだ女人禁制という時代柄、この江島詣は禁足地とされた「山」とは無縁の「島」であったことから、女性でも功徳を積めるという意味合いで人気を博したようです。
ちなみにこの江の島へは箱根の関所を通らずに江戸から歩いて来れたことから、お伊勢参りできない江戸からの多くの参拝者がなだれ込むようにして訪れたとのこと。
東海道名所之内 江之島(作:2代目 歌川国貞)※板元:伊勢屋兼吉
1863年(文久3)第14代将軍徳川家茂の上洛を描いた錦絵シリーズ。
岩屋の前から鮑取りの様子を見物する将軍と海女、その子供?を描いた絵図。
どうやら稚児ケ淵やこの岩屋の磯辺にて、少し特殊な磯遊びが横行していた模様💘
なんでも遊客が、子供ら命じてアワビを素潜りで取らせ、銭を海中に投げて拾わせたりしたそうな。
どうやらこの時代、江ノ島には海女が大勢いたようでお金さえ支払えば、アワビを海中から捕ってきてくれたとのこと。
江ノ島が題材として描かれる浮世絵は肉筆画や浮世絵版画を含め、確認されているだけでも250余点にも及び申す。
中でも版画作品が約95%を占め、「富士山」を描いた浮世絵に次いで多く、その江ノ島を題材としている浮世絵の中に多く見られるのが、上掲画像のような「アワビ捕り」を題材とした浮世絵でござる。
上掲画像の海女(女性)は上半身スッポンポンのセクシー・妖艶さを通り越して、もはや豪快・勇ましい。たくましいとも呼べる女性の姿を鮮烈に描いている。
なお、この当時の浮世絵に子供がアワビを手持って描かれている事実を以って、この当時の江ノ島の特産品は「アワビ」であることを強く訴えかけている。
明治時代
慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)
明治新政府より神仏分離令が発令される。
前述の通り、この時、江の島には3躯(3体)の弁財天像が上之坊、下之宮、別当「岩本院」にそれぞれ奉斎されていましたが、仏教色が濃い弁財天像は目の敵にされ、本来であれば破壊や盗難を回避するために島外へ避難させるのですが、このうち2体は島内に留まり、残り1体だけは島外へ持ち出された。
3体の弁財天像の行方
- 旧本宮(江の島岩屋)or御旅所安置の八臂弁財天像→ 現在も岩本楼(本館蔵)にて安置
- 上之坊(上の宮)の妙音弁財天像→ 現在は江島神社の奉安殿にて安置
- 上之坊(上の宮)の八臂弁財天像→ 現在は望地(もうち)弁天堂(相模原市田名)にて安置 ※推定とされている
1873年(明治6年)
江島神社が郷社に任ぜられる。
1873年(明治7年)
翌年の明治7年、郷社に列したことから次のように御祭神も変更される。
- 奥津宮(旧本宮御旅所):多紀理比売命
- 中津宮(旧上之宮):市寸島比売命
- 辺津宮(旧下之宮):田寸島比売命
- 江の島岩屋(窟屋)祭神:
左奥:天照大神
左奥:須佐之男命
右奥:三比売大神
なお、奥津宮、中津宮、辺津宮に配された3柱神は、これらの祭神が配された理由は厳島や竹生島などを例とし、水に近い場所に鎮座してきた歴史を有することから、江島神社にも同様にこれらの神が配されたと考えられています。
ただ、岩屋に配された祭神については経緯が不詳とされています。一説には弁財天像を守るために当時の江島神社はいち早く、新政府の神仏分離令に応じる姿勢を見せるため、とりあえず闇雲に配神を定めたとも言われます。
1869年(明治2年)には三社同時のご開帳が行われる!
1869年(明治2年)にも、本宮岩屋秘仏のご開帳が執り行われる予定でしたが、この時、神仏判然令の世情が背景にあり、仏教色の強い弁天像の御開帳を差し控え、代わりに「江島大明神大祭」と改称して斎行されています。
1891年(明治24年)頃に橋が架橋される!
実は上記、「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」を見て疑問が出た方もいると思いますが、絵図の女中たちは江の島へ徒歩で渡っています。
この当時、干潮時は江の島まで歩いて渡れそうですが、満潮時は渡し舟や渡し人足が必要だったようです。
そして1891年(明治24年)頃、待望の村営による木造の簡素な橋が架橋されたのですが、度々、波にさらわれて流されたそうです。
画像引用先:https://smtrc.jp/
大正時代
大正時代から昭和初期の岩屋内部を撮影した古写真
往時は木造の社殿(お堂)がこの岩屋内部に建てられ、この内部で弁財天が奉斎されていたことを物語る決定的な1枚であ〜ル。
岩屋内部の様子(年代不詳)
年代不詳とされているが、写真をみたかぎり、前述の社殿(お堂)と、その前に木造と思わしき簡素な鳥居が見えることから、近しい時代の古写真と思われる。
岩屋入口の古写真(年代不詳)
木造の桟橋状の簡素な橋が洞穴内部に架橋されている様子が分かる1枚。現在は橋ではなく、舗装された通路になっている。
高波や満ち潮がヒドい時、もしくは潮位が上がる季節になると、御神体を御旅所(奥津宮)へ移したとのことから、おそらく幾度も波にさらわれて、都度、建て直しされてきたような印象を受ける。
岩屋入口の古写真(幕末〜明治)
この写真はおそらく、キャめら メラっ!ジュボ〜っ‥‥‥ (訳:カメラ)が日本へ伝来して間も無く撮影されたと思われる。
銀杏髷(いちょうまげ)と思わしき髪型を結った人物の容姿からも時代がみてとれる。
笠をかぶっているのは船頭か。船を漕ぐ棒である櫂(かい)を手持っている。
ちなみに写真の中の人物の足元は舗装された綺麗な通路ではなく、これは海水が浸水している。銀杏髷のオッさんはボコっと出っ張った岩の上に乗っているのがお分かりいただるだろうか。
昭和時代
落石事故が発生!
1971年(昭和46年)3月、落石事故が発生し報道によれば2名が死亡と報告されています。
以後、20年もの間、岩屋洞窟が立入禁止になります。
その後22年の時を経て、1993年(平成5年)4月にリニューアルオープンしています。
平成時代
1993年に洞窟内外が整備される!
1993年(平成5年)になると江の島を一大観光地へと盛り上げる一環で、藤沢市の主導により、洞窟内部はもとより、その周辺付近が整備され、岩屋洞窟は再び、江の島における観光スポットとなります。
この時の整備により、内部に照明が設置され、案内ガイドのパネルを飾り、演出のための龍のオブジェなどが置かれています。
台風21号により再び閉鎖
江の島岩屋は2017年10月23日の超大型台風(台風21号)の影響で閉鎖され、2018年4月28日に無事、営業が再開されています。
江の島の中でもこの岩屋洞窟は海に面していることから、最も被害が大きく、被害総額額はのぉあんとぉっ!7千939万円!(江の島全体では1億5千万円)
詳しい内訳は、入口へ続く階段の崩落、洞窟内への岩石の流入など。
また、付近にある同じ島内の名所となる「稚児ヶ淵レストハウス」は、階段の手すりや道路の破損で832万円の被害額が出ています。
この稚児ヶ淵への降り口も同台風によって閉鎖されたのですが、2017年末に道路復旧し、降りられるようになっています。
画像引用先:https://www.townnews.co.jp
江の島岩屋はいつ頃できた?創建(誕生)の秘話
江島神社の社伝による岩屋の創建説
江島神社の沿革を記載した「江島縁起(1047年/永承2年/台密の僧侶「皇慶」作)の記述によれば次のように記されています。
552年(欽明天皇13年/古墳時代)4月12日夜から23日の朝まで大地が大揺れしたかと思えば、天女が十五童子を随従させて現出し、江の島を創造したとされています。これが江の島の始まりであり、起源とのこと。
これに次いで江島神社の社伝によれば、「欽明天皇の御宇 神宣 により詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」と記されており、これによれば、欽明天皇の勅命にて、現出した島の洞窟(御窟※現在の岩屋)に神を祀ったのが、江島神社のはじまりであるとしています。
「天女と五頭龍」伝説による説
江の島には古くから「天女と五頭龍」という伝説が残されており、次のような内容のことが書かれています。
その昔、神奈川県鎌倉市深沢にあった底なし沼に「五頭龍」という邪竜が棲んでおり、この竜は江の島の周辺に度々、天変地異を引き起こし、人々を苦しめていたそうな。
人々は邪竜を静めるべく、津村(付近となる腰越および隣接の現鎌倉市津一帯の村落)の長者たちが話し合い、村にいた16人の子供達を1人残らず五頭竜に捧げたそうな。(後の「腰越(子死越)」の地名の由来の起源)
しかしある時、海底が隆起して島がわき起こり、その島に天空から天女(弁天とも)が舞い降りたそうな。
その島の地域を支配していた邪竜(五頭龍)は、天女の姿を見るや否やドキドキどきんちゃん♡で生唾ゴックン♡
見事にLOVEが陥落(訳:一目惚れ)♡しちまぃ、いきなり求婚しちまぅんでさぁ。
ところがドッコイ、天女は鼻息が臭ぃのは好みじゃないの‥‥などといって、‥と、いうのは半ば冗談となり申すが、邪竜が行ってきた「残虐非道」を知っていた天女は、それを理由にそのプロポーズをはねのけて断っちまぅんでさぁ。
五頭竜はガッカリと肩を落として沼へ帰っていくのですが、翌日、再び天女のもとを訪れ、なんと!(天女に好かれるために)改心して人間を守ること約束しちまぅんでさぁ。
そして自らは江の島の向かいの陸に鎮まり、今でもその約束を違えることなく、人々を守っている‥‥‥という、な〜んとも心の奥まで火照っちゃぅ♡‥的なロマンチックなお話じゃゴザんせんかぃ。
その後、星霜幾ばくかを経て、いつしか邪竜は山へと姿を変えちまぅのですが、村人たちは山になってまで自分たちを守り続ける竜に対し、過去の遺恨は水に流すことを決意します。
そして、逆に邪竜への感謝の意を込め、「五頭竜大神」の号を付し、龍の口の部分に(山の頂)に祠を築いて神として崇めるのです。
この祠は後に「白髭明神」と呼ばれるようになり、現在では「龍口明神社」と呼ばれ、村の鎮守神として今も変わらず人々から篤い尊崇が寄せられている‥‥‥という何とも泣けるような、LOVEの炎に2秒で火が付いちゃぅ♡ようなお話でゴザんす。
なお、龍口明神社は、現在では太平洋戦争後の交通事情などの影響もあり、片瀬山駅の近隣地となる西鎌倉駅近くに遷座してい申す。
龍口山
邪竜が変化した姿とされるこの山は、現在では、ふもとに湘南モノレールの湘南江の島駅、寂光山龍口寺などを擁する「竜口山」と呼ばれています。
竜口山は、湘南モノレール片瀬山駅から湘南江の島駅にかけて、長細い高台となっており、その姿は確かに竜のようにも見えます。
還暦巳年祭
現在でも60年に一度、地元では「還暦巳年祭」という祭礼が執り行われています。
この祭礼では、龍口明神社ご神体である木彫りの五頭竜を江の島に座する天女(弁財天)に会わせるため、江島神社まで渡御するという神事です。
- 還暦巳年祭の詳細:https://gozuryu.com/goyuisho.php(龍口明神社 公式HP)
学術的な観点から見た江の島ができた理由
この岩屋洞窟の起源を辿る上で、まずは江の島がどのようにしてできたのかを話しておく必要がありまする。
江の島は今からおよそ7万年〜8万年前、突然の隆起により、海上にヒょっこりヒョウたん島の如く、ヒょっコリこりコリ肩コリ治らん‥‥てな具合にヒょっこり顔を出す形で島となったようです。….”ヒょっこり”連発して笑ぃ取ろうとせんでエエ
当初は意外にも現在よりも大きな島だったと云われ、これが悠久の時を経ながら打ち寄せる波の作用によって削られ、現在のような形になったと考えられています。
まず、これが江の島の始まりであり、起源でゴンす。
7万年〜8万年以前は対岸の龍口山付近と陸続きだった?
前述7万年〜8万年以前の江ノ島は対岸の龍口山付近と陸続きだったようです。それゆえ、江ノ島は「陸繋島(りくけいとう)」ともいわれまする。
この後、海水による浸食作用や温暖化による海面上昇により、陸地と切り離されて島になったという説もありまする。
龍口山の場所(地図)
江の島岩屋ができた理由
島の南岸に位置するこの岩屋からは、およそ6000年ほど前から断層に沿って波が掘り進んだものとされ、この長さは約150mありまする。
島の周囲には他にもこのような海食洞がいくつか存在し、その岩の割れ目を見てもやはり、割れ目の弱い箇所に沿って波が掘り進んだことが分かりまする。
江の島の中央には大きなクビレがあるのをご存じでしょうか?
このクビレは「山2つ」などと呼ばれますが、このクビレは大きな洞穴が崩れて出来たものと考えられています。
なお、この山2つのそばには、現在も波が掘り進んでいる岩屋が現存しており、「竜池洞」と呼ばれていまする。
江の島岩屋洞窟のでき方
1.今から7〜8万年前、海底が隆起し、現在の江の島が出現す。
2.波が断層に沿って徐々に波食を開始す。(今から約6000年前)
3.波食が進み、現在の岩屋の原型が出来上がる。
4.島が度重なる地震などにより、隆起し、現在の形になる。
江の島岩屋が信仰されはじめたのいつ頃なのか?霊所七瀬とは?
上述しましたが、平安時代に弘法大師・空海や役小角(えんのおづぬ)が参籠したとありますが、例えば役小角のことが書かれた「役行者本記」には、『役小角は空を飛んで江の島(岩屋洞窟)へ通った』‥‥‥などの記述が見られることから、物語のような伝説じみた傾向が見られることから、これでは参考になりんせん。
また、弘法大師・空海にしても全国各地に大師にまつわる霊跡がクソほど存在し、実際に大師が当地に訪れたのかが疑問視されるほどです。
江ノ島付近で言えば長谷観音(長谷寺)にも大師が参籠したとされる洞窟があり、大師はこの洞窟に籠り、1躯(体)の八臂弁財天像を手彫りしたとのこと。オホ
そこで史料としてはある程度、認知されている「吾妻鏡(あずまかがみ)」に記載された上記、1182年(寿永元年)4月5日条の項が浮上してきます。
この内容に拠れば、鎌倉幕府の創始者である源頼朝卿が京都高雄の文覚(もんがく)上人を招き、江の島に大弁財天を勧請し、鎮守府将軍「藤原秀衡」を調伏させるために祈祷に臨んだとあり申す。
以後、幕府の命令により、幾度となく祈雨の祈祷が執り行われています。
ただ、古墳時代や奈良時代、平安時代などにも何かしらの信仰があったのかもしれませんが、現状、これが史実においての江の島信仰の起源となり得るものです。
霊所七瀬
霊所七瀬とは、摂関家から迎えられた鎌倉幕府4代目将軍「藤原頼経」が宮中行事「七瀬の祓え」に倣って定めた7カ所の霊所のことです。
- 江島龍穴(江の島岩屋洞窟)
- 固瀬河(片瀬川)
- 金洗沢池(七里ヶ浜)
- 由比浜(由比ヶ浜)
- 㹨河(いたち川)
- 六連(六浦)
- 杜戸(森戸)
これら七瀬は実際には陰陽師たちの提言により、取り決められたそうですが、このような幕府の行事に定められたことから多くの人々の目に止まり、多くの信仰が寄せられたのでしょう。
なお、この7カ所それぞれの場所を点と線で結ぶと「北斗七星」が描かれることに気づきます。
これは鎮宅霊符神社(奈良)に見られるように当時の陰陽師たちが北極星を崇めていた背景や、北極星が信仰の対象とされていた妙見信仰に紐づくものです。うきゃ
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