鎌倉・鶴岡八幡宮「太鼓橋」
読み方
たいこばし
完成年
1182年(養和二年/寿永元年)
再建年
1927年(昭和二年)
構造(造り)
- 橋脚・橋桁:鉄筋コンクリート製
- 橋床版・欄干:石製
- 擬宝珠:青銅製
鎌倉・鶴岡八幡宮「太鼓橋(反橋)」の歴史・由来
鶴岡八幡宮の三ノ鳥居をくぐってすぐのところにあり、源氏池と平家池の間にかかっているのが、太鼓橋です。
太鼓橋は、もともとは木造・朱塗りの橋だったので、鎌倉時代の創建当初、「赤橋(あかばし・あかはし)」と呼ばれていました。
将軍家が鶴岡八幡宮に参拝する際には、この橋で輿から降りたといいます。
『新編鎌倉志』には、橋の大きさについて、長さ五間(約9.1m)、幅三間(約5.5m)だったと記録されています。
源平池と同時に建造されましたが、1923年(大正12年)の関東大震災で全壊し、1927年に鉄筋コンクリートなどを使って再建されました。
自由に通行できていた時代もあり、フォトスポットとしても人気でしたが、今は封鎖されています。
現在は渡れない橋ではありますが、鎌倉市内ではいずれも鶴岡八幡宮からほど近い夷堂橋(えびすどうばし)、歌の橋と共に、「かながわの橋100選」に選ばれています。
太鼓橋の左右にも橋がかかっていますが、当初は「平家を踏み潰す」という意味を込めて平家池側のみに橋をかけたのだと言われています。
太鼓橋の建築様式(造り)・特徴
橋脚は六角形
この太鼓橋はの橋脚をご覧になってみてください。
左右に回り込んで橋脚を見れば分かりますが、六角形の石造りの橋脚が9本組まれており、川底と橋部分となる筐体を支えています。
太鼓橋
この太鼓橋には、虹に似せたとも言われる30度もの急な勾配がついており、歩いて渡るのはなかなか大変なので、封鎖される前は、訪れた子どもたちが駆け上がったり滑り落ちたりして遊ぶ姿も見られたと伝えられています。
太鼓橋ゆかりの「赤橋流」北条氏
鎌倉幕府の執権を代々務めた北条氏には、「赤橋流」と呼ばれる家系がありました。
六代執権北条長時の子、北条義宗(よしむね)が、当時赤橋と呼ばれていた太鼓橋の近くに屋敷を構えたため「赤橋駿河守」と呼ばれ、彼の家系はその後、赤橋流北条氏と呼ばれました。
ちなみに、義宗の孫の守時は執権となりましたが、結果的には鎌倉幕府滅亡時の、最後の執権となってしまいました。
和田合戦の舞台ともなった鶴岡八幡宮「太鼓橋(赤橋)」
1213年(建暦三年)5月、鎌倉幕府の第二代執権、北条泰時を中心とする勢力と、有力御家人で侍所別当だった和田義盛を中心とする勢力との衝突が起きました。
これを和田合戦と呼びます。
2日間に及ぶこの合戦の間、鶴岡八幡宮の参道、若宮大路とその周辺も激戦の舞台となりました。
戦いも佳境に差し掛かった頃、和田方についていた土屋義清が泰時の本陣に攻め入ろうとこの太鼓橋(当時は赤橋)を渡ろうとした時、流れ矢にあたって死んだと伝えられています。
その矢が鶴岡八幡宮のお社の方向から飛んできたということで、神が射た矢だとして、北条氏の方では評判になったということです。
この和田合戦で和田氏とそれに加勢した土屋氏はほぼ滅亡し、勝利した北条氏は、鎌倉幕府における権力の基盤をより強固にしました。
おわりに・・
自分の足で渡れないのは残念ですが、きれいなアーチ状の太鼓橋は今でも絶好のフォトスポットです。
武士の時代に思いを馳せながら、ぜひ注目してみてくださいね。
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