【国の史跡】若宮大路とは❓名前の由来と造られた理由や歴史(年表)を……ジャワティ飲みながら知るつもり❓

スポンサードリンク

若宮大路【国の史跡】【日本の道100選】

読み方

わかみやおおじ

史跡 指定年月日

1935年(昭和10年)

日本の道100選 指定年月日

1986年(昭和61年)8月10日

長さ(現在)

推定:全長約1.8㎞

横幅(鎌倉時代)

推定
  • 横幅:約42メートル(若宮大路の道幅+両側沿道の側溝幅+両側築地塀の幅)
  • 両側沿道の側溝の深さ:約1.5メートル

※若宮大路の長さや幅は時代によって変動がある。

若宮大路とは❓

古来、鎌倉の中央を通る鎌倉の主幹道路であり、道幅や威容感溢れるその様をとって見ても、まさに鎌倉のメインストリートと呼ぶに相応っしぅぃ。

現在は八幡宮境内出入口となる三ノ鳥居から滑川交差点までの全長約1.8キロメートルの直線状の道路を指す。

若宮大路の大きな特徴となるのが、日本でも鎌倉でしかお目にかかれない一段道路が盛り上がった段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道があること。

この歩道はかの源頼朝卿が政子夫人の安産を願って造ったと伝わる。

江戸時代の鎌倉道中記によると鶴ヶ岡八幡宮から南へ由比ヶ浜までの直線の参詣道路である若宮大路を基線として、これに平行して南北に小町大路、武蔵大路があり、これに直交する横大路、長谷大路がある。これらの道の延長は七口の切り通しに通じるとある。

若宮大路は京師(京の都)の朱雀大路になぞらえて造られた⁉️

若宮大路の造成計画は、わりと早い段階で成立していたとみられており、かねてよりの頼朝卿の構想にあった京師の朱雀大路を模したとされる。

延喜式(えんぎしき)には、幅:二十八丈(84メートル)、両側の溝の幅:五尺、犬行の幅:一丈五尺、外側の垣の基底の幅が六尺と記す。

鎌倉時代初期(頼朝卿在世の頃)若宮大路の長さは‥‥

  • 横幅:約42メートル(若宮大路の道幅+両側沿道の側溝幅+両側築地塀の幅)
  • 両側沿道の側溝の深さ:約1.5メートル

以上のように記される。

対して朱雀大路の長さはというと‥‥‥

  • 横幅:約100メートル(若宮大路の道幅+両側沿道の側溝幅+両側築地塀の幅)

以上、若宮大路と朱雀大路の横幅を比較すると、若宮大路は朱雀大路の半分にも満たないことが分かる。

この理由は後述しているが、鎌倉の地形は浜から→八幡宮(山側)に向かって狭小する。対して京師は平地が広がる。

‥‥もはや比較対象にはならない。


スポンサードリンク -Sponsored Link-






若宮大路はなぜ造られた❓造った目的とは❓

若宮大路は鶴岡八幡宮の参道として造成されたものだが、厳密には、まず先に段葛(だんかずら)が築かれ、その後に段葛の左右の土地が整備された。

⬆️親指で鼻クソをホジりすぎて鼻穴が広がった時ほど 噂の「段葛」

つまり、段葛の後に若宮大路が築かれたことになるので、鶴岡八幡宮の参道という意味合いでは段葛が正式であり、若宮大路はあくまでもその補助的なものになる。

実際、身分の低い者は段葛を通行することはできず、段葛の左右にあたる若宮大路を通行したと云われる。

段葛が造られた理由や目的は頼朝卿が政子夫人の安産を願ってとされるが、どうやら他にも理由があったらしい。

段葛の詳細については下記ページを参照💘

「若宮大路」が文献上、初めて登場するのはいつ❓

実のところ、「若宮大路」と記すのは吾妻鏡のみとされる。他の歴史史料では、ほぼ「若宮”小路”」と記される。

1185年(文治元年)5月16日、壇ノ浦に沈んだ平家の総大将・平宗盛が京師から鎌倉へ移送された際、若宮大路を経て横大路に到り、大蔵御所へ入ったことが記されてい‥‥‥ます。ちょっと待って 不調 SORO SORO GENKAI KAMO

若宮大路の別名

七度小路(室町時代)、千度小路、若宮小路

若宮大路の歴史(年表)

1182年(寿永元年)3月15日

吾妻鏡によると、この日、武衛(ぶえい/天子を守る武官のことで将軍(頼朝卿)のこと)自ら現地にて監臨し、北条時政以下、郎党一族が土石を運んで段葛(当時は置石や置き道と呼ばれた)へ運ばせたとある。

これはまだ見ぬ段葛造成のことを意味し、段葛という鶴岡八幡宮の参道を一から懸命に造ることで神仏よりの加護に期待し、その加護の対象こそが、頼朝卿が妻・政子の平産(へいさん/楽に出産できること/安産祈願)にあった。

1201年(建仁元年)3月10日 未の刻(午後2時)

若宮大路の西側北端から大庭景義居館、土屋義清居館、和田義盛居館が焼失したとある。

若宮大路通りの西側北端といえば鎌倉一の一等地。

大庭景義は平家に属した氏族だったが、1180年(治承四年)の頼朝卿挙兵に応し、鎌倉入部後は鶴岡八幡宮や大蔵御所の造営奉行を務めた。

その功績を認められて一等地を与えられたものとみられる。

1213年(建保元年)5月2日・3日

和田合戦が勃発し、和田義盛、土屋義清ともに敗死。

乱後、両人の居館は収公され、時経て北条時房居館、鎌倉末期頃には赤橋流・北条居館になる。

1935年(昭和10年)

国の史跡の指定を受ける。

1934年(昭和9年)

第1回鎌倉カーニバルが若宮大路を中心に開催される。

若宮大路で行われたビックパレードには数十万人の観客が訪れ、たちまち鎌倉の夏の風物詩となった

太平洋戦争最中

太平洋戦争(1941年12月8日 ~ 1945年8月15日)の間は開催中止となった。(8年間中断)

1947年(昭和22年)

戦後初となる鎌倉カーニバルが開催される。

1948年(昭和23年)

初日には20万人もの人出を記録。

1962年(昭和37年)

スポンサーが付かず、マイカーブームによって交通量が急増した背景もあり、パレードの進行が困難となり、是非も無く、鎌倉カーニバルが中止される。

1986年(昭和61年)8月10日

旧建設省と道の日実行委員会により制定された「日本の道100選」に「鎌倉幕府の遺跡」として選出された。

若宮大路の特徴

段葛は鎌倉のラグーン地形を埋立て出来た❓

鎌倉は典型的なラグーン地形をしており、頼朝卿が段葛を造成した当時、現在の一ノ鳥居(浜の鳥居)あたりまで砂浜が広がっていたらしい。

ラグーンとは、海の一部が入り江状になって陸地に入り込んだ様子を意味する。主に浜辺付近に見られる。

特徴としては水深の浅い水域になっていることが多い。

頼朝卿はそのラグーン状になっていた地形を埋立てるのと、段葛を造成するのとを工事の目的に掲げていたとみれる。

ラグーンの例

北海道サロマ湖

河北潟(石川県)

十三湖(青森県)

1215年(建保三年)8月19日、大風によって鶴岡八幡宮の前浜鳥居が倒壊し、同10月30日には「鶴岳(鶴岡=鶴岡八幡宮のこと)の浜の鳥居」が新造されたとする。

ここでの「前浜」とは、浜の鳥居(現在の一の鳥居)が建つ、下の下馬付近までの地を指し、この当時、下の下馬付近まで砂浜が広がっていた=海が近かったことを意味する。

現在までの研究では、1212年(建暦二年)3月16日条にある「前浜の辺りを屋地」とは、湿地の埋立てが完了して、やっとこさ家屋が建てられる宅地造成が完了したとする。


スポンサードリンク -Sponsored Link-






若宮大路は曲がりくねった道だった❓

吾妻鏡の1182年(寿永元年/鎌倉時代初期)3月15日条によると、「鶴岳社頭より由比浦に到るまでの曲横を直し、詣往道を造る」と記される。

ここでの「鶴岳社頭」とは、現在の鶴岡八幡宮の三ノ鳥居、由比浦とは現在の一ノ鳥居に比定されるもの。

この当時の若宮大路通りは湿地帯が点在する形で広がっており、それら沼沢地を避けるようにして道が設けられていたと考えられてい‥‥‥あひぇ

若宮大路には数カ所「橋」が架かっていた?

段葛のある若宮大路通りは鎌倉のメインストリートでもあったことから、その周辺には幕府に仕える武士たちの屋敷が軒を連ねていたと伝わる。

吾妻鏡の1229年(安貞3年)正月15日条によれば、将軍御所の西門前に段葛へ向けた橋が架橋されていたとされ、他にも以下で挙げるような有力御家人衆の屋敷にも段葛へ向けた橋が架橋されていたとのこと。

  • 北条時房(顕時)邸
  • 北条泰時(時頼)邸

なお、当時の有力御家人の屋敷の周囲には溝を設けるのが主流とされ、はたまた、段葛自体にも側溝が設けられていたことから、これらの溝を跨ぐために橋が架橋されていたとのこと。

ただ、如何に有力御家人とはいえ、段葛へ向けた表門を構えることはしても、段葛へ向けて開くような構造にすることだけは恐れ多いと憚って内開きにしていた模様。

その他の武士たちに関しても、仮に若宮大路(段葛)沿いに屋敷を構えたとしても、大路に背を向けて建てることが原則とされ、表門を若宮大路側に構えることが許されなかったと伝わる。

現在、本覚寺(ほんがくじ)や大巧寺(だいぎょうじ)、妙隆寺(みょうりゅうじ)などの日蓮宗系寺院は、なぜかゼカゼカ若宮大路に向けて正門が設けられておらず、その裏通りとなる小町大路に面して正門が設けられていること自体、その名残ともいえる。

東に27度ズレている

実は段葛は27度、東にズレて造成されており、直線的な南北線ではない。27度 ”ズラ”が”ズラ”っとズレるように”ズラ”した明確な理由は今日に到っても未詳とされる。…羽生バリの3連続トゥループの完成!ヒャッホぅぃ〜

もし、当初から27度ズラして造成されたのであれば、以下の京師をモチーフとした説に紐づけることができる

なお、当時の鎌倉の認識では27度ズレていた認識はなく、あくまでも八幡宮より由比ヶ浜へ向かって直線状に造成されたと云われる。

京師(京の都)がモチーフとされた

現在までの通説では段葛および若宮大路の造成に際し、頼朝卿は京師をモチーフとして造成計画を練ったとされる。

京師をモチーフとしたのであれば、東方の祇園山、西北方の石切山を避けたとする有力説が近年まであった。

具体的には大内裏の鬼門にあたる北東に比叡山があり、その真南に東山が位置する。

その叡山と東山を点と線で結び、平行に移動させて、京都北に位置する船岡山から引いた線が朱雀大路にあたる。

船岡山から1380メートル(460丈)南下した地点が一条大路となる。

一条大路からさらに460丈下った地点が二条大路となり、一条大路と二条大路との間が大内裏の南北の距離となる。


鎌倉考古学研究会の馬淵和夫氏の見解によると、上記の様相をそのまま鎌倉に落とし込んだとする。

それが先述したように鎌倉の比叡山にあたる「天台山」、東山にあたる「布張山」。

それらを点と線で結んで平行移動させた地点が船岡山にあたる「十王岩」。

その十王岩から460丈南下した地点に京都の一条大路にあたる「横大路」が出てくる。

鶴岡八幡宮の位置は京師で示すと大内裏にあたることから、本来、横大路の南側に置かれるのではあるが、鎌倉の地形は京師のように広がっておらず、それゆえに北側に配置させたとみられる。

見方を変えると、1182年の若宮大路(段葛)造成前となる1181年(養和元年)5月以前の段階で、すでに27度傾き説をもとに天台山・布張山・十王岩などの場所が割り出され、設計図上に落とし込まれていたことになる。

段葛の南端は海だった

頼朝卿が段葛を築いた頃は現在のような公道(陸地)などではなく、おそらく現在の一の鳥居あたりまで海が迫っていたことが想像につく。

これはつまり、長谷小路〜大町大路の区間が若宮大路と直交する下ノ下馬付近まで、浜の鳥居だったことを意味する。(この当時は全長約900メートルとされる)



スポンサードリンク -Sponsored Link-






鎌倉時代の若宮大路は地下に埋もれていた?!

実は近年、三の鳥居すぐ後ろの「赤橋」前にて、昭和37年1月20日に公共下水道工事が実施されており、のぉあんとぉっ!地表下約180cmで敷石が発見されています。

⬆️鶴岡八幡宮・赤橋(左右の橋ではない)

この石を分析したところ、12世紀の石であることが明らかにされており、さらに調査が進むにつれ、基部から二列にわたる石積まで発見されたとのこと。

これらの石の中には貝殻の付着した伊豆石などが数多に発見されており、現在の路面から下1mに砂、その下に川石、さらにその下に砕石層、そして最下層に海砂の層があったことも明らかにされた。

つまり、平安〜鎌倉時代の参道が約2mも地下に埋もれていたことになる。

実のところ、段葛ならびに若宮大路の以南・以北の発掘調査は実施されていないので、これについては安易な回答ができかねる状況であると云わざるを得ない。

じゃがしクぁし!

砕石層とは人工的に砕石した石コロころころドコいった‥‥のことを指し、その下に海砂の層があったということは‥‥かつては砂浜だった説、もしくは鎌倉時代、由比ヶ浜の浜砂を運んできて下に敷き詰めたということも考えられるということ。

その上に川石、さらにその上に砂が敷かれている状況を加味すると人為的に造成された可能性も指摘される。

もし川石が下層にあった場合、見解は少し変わり、鎌倉の山に囲まれた地形を加味して山の小川が土砂を運んできて山積したという可能性もある。

若宮大路には側溝があった!

往時の「若宮大路」は現在でいうところの下水道の役割も担っていたとのこと。

若宮大路で発掘調査が実施された際、雪ノ下一丁目371番1地点から「一丈 伊北太郎跡」「一丈 くにの井の四郎入道跡」と書かれた約40センチの直刀状の人名木簡が2枚、出土したとのこと。オホっ

ここでの「一丈」とは長さの単位を示し、これはつまり、造成する際、1丈ずつ御家人たちに割り振られて担当を決めていたと考えられてい‥‥ます。フェイント (ネタが切れかけたらフェイントが増える)

現在の若宮大路の両端の車道部には、かつてドブ(側溝)が掘られていたようで、人々はこの溝へ向けて糞尿(ションベンやクソ)を切れ痔になるほど激しく垂れ流していたとのこと。 切れ痔は余計

なお、現在の三ノ鳥居(八幡宮入口)周辺で側溝の遺構が発見されており、溝幅約3m、深さ約1.5m、ほかに土留め用(崩落防止)の横板を角柱で支えるように造られていたとのこと。

また、東端の側溝と西端の側溝との間隔は約42mとされ、だとすると往時の三ノ鳥居前の道幅は現在よりも随分と広かったことになる。

前述のように若宮大路は当初、湿地帯だったが、埋立てた後に家屋が建ち並ぶようになり、クソとションベンをそこらで撒き散らす者共が増加したのか、下水道を兼ねた側溝を掘って、そこへ垂れ流すようにしたと考えられてい‥‥申す。ピュァっ!(尿の初出の瞬間を表現)

実際に御家人の居館の周囲には堀が設けられ、そこへクソやションベンを垂れ流していたらしい。うギゃギゃギゃ

そのような家屋が増えれば増えるほど、さぞかし糞尿の物凄き美香で苦しんだであろ‥‥‥いやいや、中にはヤク漬けシャブ中のように美香にハマる者も居たであおろぅ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、…..

若宮大路には数カ所「橋」が架かっていた?

この段葛のある若宮大路通りは鎌倉のメインストリートでもあったことから、その周辺には幕府に仕える武士たちの屋敷が軒を連ねていたと伝わる。

吾妻鏡の1229年(安貞3年)正月15日条によれば、将軍御所の西門前に段葛へ向けた橋が架橋されていたとされ、他にも以下で挙げるような有力御家人衆の屋敷にも段葛へ向けた橋が架橋されていたとのこと。

  • 北条時房(顕時)邸
  • 北条泰時(時頼)邸

なお、当時の有力御家人の屋敷の周囲には溝を設けるのが主流とされ、はたまた、段葛自体にも側溝が設けられていたことから、これらの溝を跨ぐために橋が架橋されていたとのこと。

ただ、如何に有力御家人とはいえ、段葛へ向けた表門を構えることはしても、段葛へ向けて開くような構造にすることだけは恐れ多いと憚って内開きにしていた模様。

その他の武士たちに関しても、仮に若宮大路(段葛)沿いに屋敷を構えたとしても、大路に背を向けて建てることが原則とされ、表門を若宮大路側に構えることが許されなかったと云われる

現在、本覚寺(ほんがくじ)や大巧寺(だいぎょうじ)、妙隆寺(みょうりゅうじ)などの日蓮宗系寺院は、なぜかゼカゼカ不思議なほどに若宮大路に向けて正門が設けられておらず、その裏通りとなる小町大路に面して正門が設けられていることから、その名残ともいえる。

若宮大路は遠近法を採り入れて造られた⁉️

若宮大路中央を通る一段上がった俗に段カツラ‥ではなく、段葛(だんかずら)!!と呼ばれる道路は、実は二の鳥居側と八幡宮入口に立つ三の鳥居前とで道幅が大きく異なる。

その差なんと2メートル!

これはつまり二の鳥居から→三の鳥居へ向かうにつれ、道幅が狭くなっていることを意味する。

このような技法は俗に「遠近法」と云われ、この当時、世界でもこの鎌倉だけに見られた特徴でもある。

ちなみに西洋では、これより300年後に遠近法を最初に採り入れて作画されたと云われるレオナルド・ダ・ヴィンチのジョコンダ婦人像(モナ・リザ)が登場する。

道幅を変えた理由

このように道幅を変えることにより、南側から北側を見ると実際よりも道が長く見える。

言い換えると由比ヶ浜手前に、そびえる浜の鳥居から鶴岡八幡宮の本宮を見た時、キャナリ(訳:かなり)実際によりかなり距離があるように見える。

なぜ遠近法が用いられた?「遠近法が採用された理由」

由比ヶ浜沿いの街道から八幡宮の本殿(本宮)をワザと見えづらくする工夫を凝らしたとも。

確かに、遠近法を用いることにより、一の鳥居(由比ヶ浜街道沿い)から本宮を見た時、本宮が遠く見える。(現在では分かりづらい)

【参考】一の鳥居から見た八幡宮の本宮(本殿)

⬆️一の鳥居の間から見た本宮

⬆️アップ画像

このように遠近法を用いた理由は、敵の目を撹乱するためであり、つまりは幕府の防御に一役買っていた訳です。

そもそも頼朝卿が鎌倉の地に幕府を置いた理由は、鎌倉の地が東西北が山地に囲まれ、南面が海に面した要害の地だったからと伝わる。

そこで急所となる南面へ向けた段葛(若宮大路)にも仕掛けを凝らしたのだろぅかと。

本当に段葛は遠近法が採り入れられて造成されたのか?

ただし!このような遠近法が鎌倉時代にすでに認知されていたのかは判然としない。

史実によれば、日本に遠近法が伝来したのは安土桃山時代の西洋の宣教師たちに拠るものとされ、これが広まったのは江戸時代に入ってからだと云われる説もある。

つまり、頼朝卿が段葛を造成する際、遠近法を構想に採り入れていたのかは不明と言わざるを得ない。

ただ、現在見られるような段葛の景観が整ったのが大正7年の改修工事以後とも言われ、それ以前に遠近法が採用されていたのかは、今となってはそれを論証する史料が乏しいのも事実。

もし、若宮大路周辺を全体的に発掘できるのであれば、ひょっとするとこの課題に対しての回答を容易に導き出せるかもしれない。

鎌倉時代の若宮大路は現在の2倍近くも幅があった?!

前述のように鎌倉時代の若宮大路通りは三ノ鳥居側(現在の横大路付近)で横幅11.2丈(約33.6m)もあったとされることから、これは現在の2倍以上になる。

もし遠近法の概念が事実とした場合、二ノ鳥居あたり(現在の鎌倉駅付近)まで下ると幅60mもあったという説もあることから、幅広になっていくことを加味すれば、一ノ鳥居(浜ノ鳥居)あたりで100m近くになっていたのではないか❓‥‥という推論も成り立つ。

しかしながら近年、段葛はニノ鳥居あたりで終わり、それより以南は逆に南(由比ヶ浜)へ向かうにつれて若宮大路自体も狭くなっていたという説がある。

これは単純に鎌倉を上空から見たとき、由比ヶ浜から八幡宮までの地形がラグーン状になっており、幅を広げることができなかったとも考えられてい‥‥‥ます。らぐぅぁ〜(ラグーンを表現)

若宮大路の東側は西側より地表が高い

実は若宮大路の西側車道部分は東側の車道部分よりも10㎝〜20㎝ほど低い。

これは先ほどの湿地帯の話に戻すと、まさにぅぃ!西側は東側よりも湿地帯が多かったことを意味するとも考えられる。

この様相は頼朝卿が段葛を造成した頃から変わらないとされ、現在までの研究結果では西側からの攻撃に対して防御を考慮したとも考えられてい‥‥‥申す。タっ(最近ネタやばぃ)

そぅ考えると段葛は先述したように単に若宮(八幡宮)への参詣道ではなく、西側の切り通しを突破された有事の際に活用できる鎌倉中心部の防御を担う、まさにぅぃ万里の長城のミニ版のような軍事的防衛線だった可能性も充分にアリエール。‥‥落ち具合いどぅ❓ なんの話をしとる❗️

軍事目的だった可能性は実証されていた❗️

なお、若宮大路が戦場ともなった和田合戦や新田義貞の鎌倉攻めの折、実際に防御に一役買っていたとのこと。


スポンサードリンク -Sponsored Link-






「横大路」と呼ばれた3カ所の道があった

鎌倉時代に段葛が造成された当初、南端の概念を覗き、北側から「上ノ下馬」「中ノ下馬(二の鳥居付近)」「下ノ下馬」という3カ所のみ、横道から進入できたと云われる。

近年、若宮大路で実施された発掘調査によると、大路隅の溝の遺構から築地塀(土塀)が張り巡らされており、その築地塀は各、下馬を挟んで一旦、途切れ、再び下馬を挟みこむ形で延びていたいた事実が明らかにされた。

京都御所の築地塀(例)

「下馬」とは、その名の通り、人々は下馬所で馬を降りて(下馬して)歩いて段葛を通行した。

見方を変えると、段葛とは八幡宮の参詣道として神聖視され、これは源氏の権威の度合いを誇示するものだったともいえる。

当時の「上ノ下馬」「中ノ下馬」「下ノ下馬」ぞれぞれの場所はドコ?

「鎌倉市史」によれば次のように説明される。うきゃ

  • 「上ノ下馬(かみのげば)」‥‥‥現在の「横大路(現在の三の鳥居前の県道204号線)」
  • 「中ノ下馬(なかのげば)」‥‥‥小町口(二の鳥居周辺)
  • 「下ノ下馬(しものげば)」‥‥‥湘南信用金庫 南側の歩道(鎌倉市と三浦郡葉山町を結ぶ県道311号線(由比ヶ浜大通り)

「釘貫」と呼ばれる下馬所が存在した

これらそれぞれの下馬には横大路と呼ばれた道路が段葛を挟み込む形で東西に延びていたとされ、横大路(辻子)と直交する下馬には「釘貫(くぎぬき)」と称した門が建てられていたとのこと。

人々はこの釘貫の前で馬を降りて歩いて段葛を進んだと伝わる。

ちょいと下掲写真をご覧くだせぇナ。ナっ

この写真は横浜開港資料館にて保管されている江戸時代後期の段葛の写真となる。

この写真の前方は海岸(由比ヶ浜)であり、右手に延びる道は長谷の方へと続く(現在の下馬付近か)。

つまり、この写真は一の鳥居(浜の鳥居)付近で撮影されたとみれる。

この写真には冠木門のような簡素な木組みの門が見えるが、これこそが釘貫と呼ばれるものらしい。

どうも先が尖った木を3本組み合わせて簡易的に建てた門を「釘貫」と呼んでいたらしい。(またはこの釘貫の前に広がる角張った広場のことを釘貫と呼んでいたとも。)

若宮大路を中心に碁盤の網目状に通りがあった‼️

若宮大路は鎌倉時代、全体的に碁盤の網目状に通り(”辻子/ずし”とも呼ばれる)が作られ、その中心に若宮大路があった。

例えば以下で示す通り。

  • 平行する形で裏通りともいえる小町小路
  • 西側:武蔵大路
  • 南側:琵琶小路(旧車大路)
  • 北端:横大路

下ノ下馬を中心に西側:長谷小路、東側:大町大路、….etc

横大路から大町大路までのそれぞれの道の長さはほぼ同じで、大町大路と車大路の間だけは2倍もの道の長さがあったとのこと。

また、これらの大路の各、辻子(脇道)には御家人衆の居館が軒を連なったので、容易く通り抜けができなかったとされ、西側部分も同様に御家人衆の居館が軒を連ねていたとみられてい‥‥ます。ちょぃ休憩

鎌倉で方位を見る際、若宮大路からの方位を見ていた❓

吾妻鏡をはじめとした、いくつかの歴史書には鎌倉で方位を見る際、どうやら若宮大路を中心線に据えて東西南北を見ていた説がある。

1218年(建保六年)7月9日、北条義時は戌神よりの夢告により、大蔵薬師堂の建造に到ったが、建てる場所を決める時、戌神が司る方位である北西と位置付けた。

大蔵薬師堂とは現在の覚園寺の前身とされ、その覚園寺は当時の義時の居館から見て北になる。

実はこの時、義時は若宮大路を基点に据えて方位を見たという見解がある。

なお、後年、若宮大路には代々の執権が居処とした執権館が建てられたが(現・宝戒寺)、これは義時の子・泰時の代からになるので、執権館からの方位ではないことを言及しておきたぅぃ。

若宮大路の長さ(全長)

現在の若宮大路の長さは約1.8キロメートル。

鎌倉時代は未詳とされるが、冒頭でも記したように若宮大路は時代が下る毎に長さや横幅が変わってい‥‥ます。はぁ

若宮大路付近に住んだ御家人・公卿一覧

北条時定、北条業時、伊賀光政、後藤基政、宇都宮泰綱、工藤行光、中条家長、安藤光成、北条時村、花山院長雅(かざんいん ながまさ)

「若宮大路」と「段葛」の違い

若宮大路通りと段葛との目で見えるハッキリきりきりキリンレモンの開封後の刺激ほどのハッキリとした違いは、段葛は「鶴岡八幡宮の所有地」、対して「若宮大路通り」は公道(官有)という点に注目したい。

関連記事一覧

スポンサードリンク -Sponsored Link-

    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ