「扇ヶ谷」の地名の由来と意味や場所はドコ❓|鎌倉市 扇ヶ谷

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読み方

おうぎがやつ

「扇ヶ谷」と「扇ガ谷」どっちが正しい?

現在、「扇ヶ谷」と書くのが通例だが、実は他に「扇ガ谷」とも書く。江戸時代などは「扇谷」と書いて「おうぎがやつ」と読まれていたこともある。

実のところ「扇ヶ谷」の住居表示は「扇ガ谷」になってい申す。アヒョっ

これは「江ノ島」と「江の島」、「稲村ガ崎」と「稲村ヶ崎」‥などの類例が示すように、どれが正しいということはなく、いずれも同義とされる。

言うなれば、慣用的な使い分けが成されている程度のこと。

「扇ケ谷」の名前の由来

実のところ「扇ケ谷」の名前の由来は判然とせず、依然、未詳とされるが、以下の2つの説が有力とみられてい‥‥‥申す。ウォギギャっ(”扇ケ谷”を半グレながら表現)

⬆️朝、パンツ履くの忘れとった、その日1日の心地悪さほど噂の‥‥「JR横須賀線・扇ケ谷踏切(寿福寺手前)」

鎌倉十井「扇ノ井」に由来する説

鎌倉十井(かまくらじゅっせい)の1つである「扇ノ井(おうぎのい)※飯盛山 西南麓」が地名の由来とされる。

「扇ノ井」の名前の由来

「扇」の名前の通り、井戸の蓋(フタ)に用いられていた岩が扇の形状をしていたという説。

もしくは静御前がこの井戸の上にそびえる大岩の上に立って舞いはじめたところ、投げた扇が落下した場所から水が湧いてきた‥‥という伝承も残る。

 

 

 

⬆️最近の急激な寒さほど噂の‥‥「静御前が舞って扇を投げた大岩」(入らせてもらって撮影)

なお、現在の「扇ノ井」は個人家宅の庭にあるため、見れない。

ただ、庭へ入らせてもらった方々の写真を見ていると、どうやらトタン素材(亜鉛メッキ鋼板)の蓋でふさがれていて大切に管理されている模様。(その蓋も扇の形にしているコダワリがうかがえる)

扇ケ谷の地形を由来とする説

三浦勝男(元・鎌倉国宝館館長)の著書・地名由来辞典によると、扇ケ谷の地形は山谷が入り組んだ扇の形に見えることが由来になっていると記す。

確クぁにぅぃ!Googleマップで上空から当地の地形を見ると扇形に見えないこともなぅぃ。

⬆️放課後に部活をサボりたくなって言い訳を死ぬほど考えた瞬間ほど噂の‥‥「上空から見た扇ケ谷の地形」 どんな噂や


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「扇ケ谷」の歴史

「扇ケ谷」といえば、戦国時代の関東管領家である扇ケ谷上杉家の根拠地として世に知られるが、実のところ「扇ケ谷」という地名は吾妻鏡には記されていない。

源頼朝卿はじめ、北条政子や源実朝の時代には扇ケ谷ではなく、「亀ケ谷」の地名で記される。

「扇ケ谷」の地名の有史上初出は鎌倉末期!

1330年(元徳二年)と推定される11月11日に金沢貞顕(北条貞顕/(ほうじょう さだあき))が記した書状には次のような文面が見える。

『去夜亥刻(午後十時)計(ばかり)に、”扇谷”の右馬権助家時門前より火いてき候て、亀谷の小路へやけ出候て‥‥』

‥などと火難に見舞われた旨の内容が記される。

鎌倉末期には幕府の要人が居処とした

上記、金沢貞顕が記した書状には続きがあり、次のような幕府要人の居館が甍を連ねていた様子も記される。

「大友貞宗(おおとも さだむね/近江守)の宿所」

「北条貞規(ほうじょう さだのり)の後室」

「諏訪六郎左衛門」

‥‥‥etc

上杉禅秀の乱にも”扇谷”の名称がみえる

鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)では、1416年(応永二十三年)の上杉禅秀の乱の折、三浦一族が気生坂(けわいざか=現在の”化粧坂”)に陣取り、上杉氏定父子は”扇ケ谷”に陣取って対陣したことが記される。

室町後期編纂の「廻国雑記」にも”扇ケ谷”の名称がみえる!

道興准后(どうこうじゅごう/京都市左京区・聖護院門跡)が著した「廻国雑記(かいこくざっき)」には、当人が1486年(文明十八年)に鎌倉へ来訪したことを次のように書き記す。

『”扇ケ谷”にて 秋たにもいとひし風を折しもあれ、扇ケ谷は名さへすさまし』

鎌倉時代〜室町初期の扇ケ谷

鎌倉時代から室町時代初期の扇ケ谷やその周辺一帯は上杉一族の武家屋敷が立ち並び、寺院も多かったらしい。

安土桃山時代の扇ケ谷

1591年(天正19年)当時、「扇ケ谷村」と呼ばれた当地における九十八貫八三〇文もの領地を鶴岡八幡宮社地として徳川家康公が寄進したとされる。

江戸時代の扇ケ谷

1634年(寛永11年)にも英勝寺建立のため、寿福寺門前の地が寄進されてい‥‥‥申す。きゃ

なお、1838年(天保九年)には39軒の民家が建っていたことや、当時の人口が215人だったことが記録されてい‥‥ます。 ふぅ(ネタ切れ気味になるとフェイントが増える)

他にも湯谷2軒、呉服古着屋1軒、小間物屋(日用品を商う家)が1軒、在ったらしい。

明治時代の扇ケ谷

明治時代初期には40戸の農家があり、ほとんどが農地だった。

1885年(明治十八年)に刊行された「貿易備考」には扇ケ谷の地に大勢の鎌倉彫の彫り師たちが居処としたことが記される。

大正時代の扇ケ谷

大正時代の始め頃も、ほぼ横ばいで36戸の農家が在ったとのこと。以前風景は変わらずほとんどが農地だった。

扇ケ谷に家が建ち始めたのは昭和時代になってから

現在の扇ケ谷には数多の民家が甍を連ねるが、この様相は昭和時代に入ってから。

朝鮮山

太平洋戦争が終戦を迎える前には海蔵寺へ抜けるガード付近に朝鮮山と呼ばれる山があり、名前の通り、その山内には数多の朝鮮人が住んでいたとのこと。オホ


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いつ頃から「扇ケ谷」と呼ばれ始めたのか?

現在の英勝寺前を通るJR横須賀線の踏切を渡った正面には護国寺(ごこくじ)が建ち、その敷地の端に鎌倉青年団が建てた「扇谷上杉管領屋敷迹」の石碑がある。(〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目4−3)

名前の通り、護国寺が建つ以前、まさにぅぃ!当地にその扇ケ谷上杉家の居館が建っていたおり、その上杉氏が代々、扇ケ谷流・上杉氏と称したことから、その居館を中心とした地名も「扇ケ谷」と呼ばれるようになったと云われる。

(特に管領の上杉定正(うえすぎ さだまさ/俗称:扇谷定正)が「扇ケ谷殿」と呼ばれていたことから由来がきているとも。)


扇谷上杉家とは?

扇ケ谷上杉家とは室町幕府を創始した足利尊氏の母方の叔父である「上杉重顕(うえすぎ しげあき)」を流祖とする家柄となる。

この上杉重顕の叔父に藤原北家出自(高家)の上杉 重房(うえすぎ しげふさ)という人物がいるが、この重房は後鳥羽院に接近するや否や、たちまちのうちに院の寵臣(お気に入り)となる。

しかしながら、鎌倉幕府と朝廷との歴史的な一戦となる承久の乱にて後鳥羽院を中心とした官軍(朝廷軍)が敗れると、地下家(じげけ/昇殿が許されない家柄)へと没落した。

重房はその後、式乾門院(しきけんもんいん/守貞親王(後高倉院)の娘っ子)に蔵人(平易に身の回りの世話役)として仕え、式乾門院の没後は軍事貴族(武士)となって宗尊親王(むねたかしんのう/鎌倉幕府初の貴族出身の将軍/鎌倉幕府6代将軍)に仕えたと云われる。

親王が新将軍となって鎌倉へ下向した際も、これに随従した。

しクぁし!

やがて宗尊親王は謀反の嫌疑がかけられて帰洛の途に着くことになるが、重房はそのまま鎌倉に逗留し、村上源氏 土御門流の家人になることで何とか家格を護った。

足利泰氏に仕えたことで家運隆栄す

やがて重房は運命の人物ともなる有力御家人・足利泰氏に縁あって仕える運びとなり、娘(妹とも)を泰氏に嫁がせたことにより、足利家中で権勢を誇るようになる。

泰氏の方も、藤原北家を出自とする重房、ならびにその背景にある朝廷とのコネクションが構築できる切り口を得た。

こぅして重房は鎌倉は扇ケ谷を根拠地とし、一大勢力を築いていくことになる。

なお、現在の通説では重房を上杉氏の祖先とし、重房の甥っ子である重顕を扇ケ谷上杉家の遠祖、上杉重顕の子である上杉朝定(うえすぎ ともさだ)を扇ケ谷上杉家の流祖と定義する。

上杉重房の坐像もある?

現在、明月院(鎌倉)には木造の上杉重房坐像(国の重要文化財)が所蔵される(鎌倉国宝館に寄託)

海蔵寺の山号「扇谷山」にも注目!

考えてみれば、もっともな「扇ケ谷」の名称の由来に考えられなくもないのが、鎌倉の古刹「海蔵寺」の山号にある。

海蔵寺の山号は何といっても「扇谷山(せんこくさん)」。

この山号は現在も変わることなく、「扇谷山」と揮毫された扁額を掲げる。

なお、海蔵寺は1253年(建長五年)に宗尊親王の発願によって藤原仲能が創建したと云われることから、上杉定正が死没後に建てられたことになる。

つまり、海蔵寺の寺号とは上杉定正の影響で「扇ケ谷」と呼ばれるようになった当地に創建されたことから、「扇谷山」を称するようになったとも大いに考えられる。(‥‥というかほぼ確定だろぅ。ホホホっ


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扇ケ谷の小字

今小路(現在の寿福寺のあたり)、七曲、下小路、綴喜原(化粧坂下の谷)、葛原ヶ岡、泉が谷(浄光明寺周辺)、梅が谷(化粧坂入口あたり)、清涼寺谷、藤ヶ谷、智岸谷谷、法泉寺谷(トンネル上)、千葉地(政宗の井戸周辺)、佐助ヶ谷、亀ケ谷…..etc

扇ケ谷内にある寺院

寿福寺(じゅふくじ/臨済宗建長寺派)、英勝寺(えいしょうじ/浄土宗)、薬王寺(日蓮宗)、浄光明寺(真言宗)、海蔵寺(臨済宗建長寺派)

扇ケ谷内にある神社

八坂神社(扇ケ谷の氏神)、巽荒神、葛原ヶ岡神社、佐助稲荷神社

「扇ケ谷」の場所(地図)

鶴岡八幡宮前を通る横大路の終着点となる寿福寺境内や、その隣地にあたる英勝寺境内を中心とした地域となる。

現在の扇ケ谷は一丁目〜四丁目までの区域に分けられる。


本来の扇ケ谷の区域

鎌倉誌では本来の扇ケ谷の地域は、海蔵寺、華光院(けこういん)、英勝寺付近周辺に限定した狭小地域だと記す。

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