【和田義盛&和田一族の墓】和田塚(無常堂塚/古墳)の名前の由来や場所・歴史を….記憶するつもり❓

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和田塚とは❓

和田塚とは鎌倉時代、鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、源頼朝における全国統治の一翼を担った和田義盛(わだ よしもり)とその一族郎党が眠る墳墓(塚)とされる。

和田塚の別名

無常堂塚(むじょうどうづか)

「無常堂」の意味とは❓

「無常堂(むじょうどう)」とは、死にかかっている病人を収容する場所を意味する。

他に「涅槃堂(ねはんどう)」とも呼ばれる。

死期を悟った者は無常堂や涅槃堂へ移され、看病を受けつつも当所にて臨終を迎えたと云われる。


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和田塚は元々「古墳」だった⁉️

現在は往古の姿形をとどめないが、これまでの調査では和田塚はかつて円形古墳だったことが明らかにされており、鎌倉に現存する唯一の高塚式古墳だと伝わる。

現在では「向原古墳」とも呼ばれながらも、言い伝えによると和田合戦における戦死者を埋葬し、塚を築いたとのこと。

実際にこの塚からは無数の人骨や馬骨が出土したことから、1213年(建保元年)5月3日の和田合戦で敗死した和田義盛とその一族郎党の墳墓だとされ、それゆえに「和田塚」と呼ばれる。

1901年(明治三十四年)、「和田一族戦没地」と陰刻された石碑が建立されてから後は、広く「和田塚」と呼ばれるようになり今日に到る。

采女塚から古墳時代の埴輪が出土

前述、無常堂塚の中に「采女塚(うねめつか)」と呼ばれる塚があり、1892年(明治二十五年)の道路工事の際、この塚からは埴輪(はにわ)の勾玉を付けた女子像(像高27.2㎝)や、首と両腕の取れた(もしくは無かった)着鎧姿の男子像(像高31.8㎝)などが出土したとのこと。

ちなみに埴輪女子像は現在、京都大学考古学研究室、男子像の方は横浜国立大学学芸部に所蔵される。

なお、上記、道路工事が実施された時にはスッカリかりかりカリフラワーのモリモリ具合の如く、采女塚はスッカリと埋もれ、大正末期には一部を削り取られながらも、辛うじて円墳の面影を残していたらしい。 どんな度合いや(また飽きずにこのクダリか…)

その削り取られた裾部からは埴輪の欠片が見つかり、頂(いただき/盛り上がった頂上部)には五輪塔が並べられていたとのこと。

和田塚敷地内の様子

正面に見える和田塚の石碑の刻銘

オモテ面:「和田一族戦没地」

裏面:「明治四十二年九月二十五日 竣工」

「鎌倉保勝会長 男爵 沖守固(おきもりかた) 」とも記す。

この沖守固という人物の簡単な来歴は次の通り。

天保12(1841年)6月13日に鳥取藩士・江戸詰絵師、沖一峨の長男として東京(江戸)にて生を得る。

主に西日本各地にて知事などを歴任するが、どうやら1881年11月に神奈川県令に就いた縁から、このような石碑が和田塚に建てられた模様。

左側に見える和田塚の石碑の刻銘

オモテ面:「和田義盛一族墓」

裏面:「明治三十四年二月十八日(建立)」

「古郡 保忠 後裔 古郡 静 建之」とも記される。

古郡 保忠とは❓

古郡氏は武蔵七党の1つである横山党の一族とされる。

横山義孝(義隆)の子・忠重は都留郡の古郡郷(上野原市上野原付近)に進出した後、古郡氏を称したと伝わる。

都留郡は国中(甲府盆地)のみならず、隣国の相模国(神奈川県)などの関東地方とも関わりが深ぅぃ。

古郡氏は建暦3年(1213年)の和田合戦において和田義盛の援軍として参陣し、若宮大路(鎌倉)にて義盛が討たれて由比ヶ浜にて和田一族が壊滅すると、古郡経忠・保忠兄弟は和田常盛や横山時兼らに随行し、波加利荘(はかりのしょう/甲斐国都留郡の荘園)へ落ち延び、当地にて自害に及んだと伝わる。

和田合戦後、横山党の所領は幕府に収公され、手柄を立てた御家人たちに分与されたと伝わる。

当石碑ウラ側左下隅に「古郡 静」と陰刻されるが、その右側に「後裔(こうえい/=子孫)」と見えるように、この方はおそらく古郡 保忠の子孫なのだろぅ。


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五輪塔の刻銘

和田塚後方には無数の五輪塔や石塔がまるで寄せ集められるようにして置かれてい‥‥‥申す。

中でも1674年(延宝二年/江戸時代前期)の年号が刻まれるものが散見される。和田氏の関連したものは、ほぼ明治以降。

お地蔵さんの姿も‥‥

戦没者慰霊碑

オモテ面の陰刻

戰歿者慰靈塔(戦没者慰霊塔) 圓覚宗源書(花押)

ここでの「圓覚」とは「円覚寺(北鎌倉)」、「宗源」とは、円覚寺管長の朝比奈宗源氏(別峰老師とも)のことを指すとみられる。

同氏は1942年(昭和17年)から1979年(昭和54年)まで円覚寺管長ならびに僧堂師家(禅修行を指導する者)を務められた御方。

横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当。当時の日本はファシズムの風潮にあったが、危険を顧みず戦争の悲惨さや道徳を多くの学生たちに伝えたとされる。

世界連邦日本仏教徒協議会(世連仏)初代会長。

ウラ面の陰刻

日華事變 並ニ 太平洋戰爭 當區(当区)戰歿(戦没) 英霊供養ノ爲メ(為に)之ヲ建ツ(この碑を建てる) 昭和廿六年(26年)八月 由比ケ濱遺族 厚生會

日華事変とは「日中戦争 ( にっちゅうせんそう)※1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)」のこと。

どうやら由比ヶ浜地区の日中戦争と太平洋戦争の戦没者の供養するため、「由比ヶ浜遺族厚生会」と称する団体が建立した供養塔になる模様。

和田塚の案内板

和田塚は建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。

和田塚の前身は古墳時代の墳墓であった言われている。

大正末年頃、の開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔を並べた和田塚はかろうじて残った。

鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。

社団法人 由比ヶ浜青年会 平成24年5月

本当に和田義盛と和田一族の墓なのか❓

吾妻鏡によると和田合戦の直後、「仮屋を由比ヶ浦(由比ヶ浜)の汀(みぎわ/波が打ち寄せるキワ)に建て、義盛以下の首を集め置いた」と記すことから、無数の人骨や馬骨が出土した場所こそが当仮屋だったとすれば事実関係は照応する。

しかしながら、翌日その首は「固瀬(片瀬)河ノ辺に梟す‥首234‥‥」などと記されることから察するに仮屋に置かれた234の首は片瀬川(かたせがわ/現在の境川の河口部)へ運び出されて河辺(かへん/河口近くの川辺)で晒されたことになる。

義盛はじめ、その一族郎党の首を河口部の浜辺に並べ終わった時には、数もさることながら日没を過ぎていたたこともあり、首実検の際には浜辺に灯りが灯され、松明の灯りを以ってして一つ一つ、晒された首を照らしながらの首実検だったとのこと。

首実検にあたっては、松明を近侍の金窪行家(かなくぼ ゆきいえ)と安藤忠家(あんどう ただいえ)に持たせた北条義時自身が1つ1つの首級を検分したと伝わる。

なお、由比ヶ浜に首が置かれた建屋は「仮屋」だと記すことから、これは片瀬川へ運ばれた後で記されたことが分かる。

同時に「仮屋」なので片瀬川へ運ばれた後、再び当地に首が返ってきた可能性は低いと言わざるを得ない。

つまりのところ、現在の和田塚に和田一族の人骨が埋まっているという伝承は推測の域を出ないという結論に到る。


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和田一族の首や胴体(死体)の行方‥‥「ドコに埋められた❓」

鎌倉は南面を海、それ以外は山々に囲まれた閉塞された土地柄ということもあり、特に鎌倉時代などは死体が生じると浜地などへ運ばれて適当に埋められたとも云われる

実際、1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際に生じた多くの死体のほとんどはその場に放置され、長らくそのまま放置状態だったとのこと。

しばらくして、念仏を唱える僧たちが来訪すると、供養の末、由比ヶ浜に大小32ヵ所余りの穴ボコを掘って埋めたとされる。

その事実が明らかにされたのが昭和28年から3回にわたって実施された浜の鳥居周辺の発掘調査であり、その折、無数の人骨や馬骨が出土した。

なお、和田一族の首や胴体などのいわゆる死体は翌日中にはすべて片付けられたらしいが、はたしてドコに、どのようにして処分されたのかまでは判然としない。

ただ、上記、義貞の鎌倉侵攻の際に生じた遺骸は、すべて九品寺(くほんじ/鎌倉市材木座)に無縁仏として埋葬されているとのこと。

その他の見解としては采女塚の古墳が鎌倉時代にも暴かれ、その中にあった古き時代の人骨とともに死体を埋めたとも考えられる。

和田塚は鎌倉時代以降も死体を埋めるための埋葬地だった可能性があり、だとすれば発見された無数の人骨や馬骨は様々な時代の人々のものだとも考えられる。

和田塚の場所(地図)

  • 所在地:由比ヶ浜2丁目19-1

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