段葛の名前の由来や見どころなどは下記ページにて💘
段葛の歴史と歩み(年表)
鎌倉時代
1180年(治承4年)
念願の平家討滅を成し遂げた源頼朝卿は、当時、海辺近くに建っていた鶴岡八幡宮(元宮)を現在地に移す計画を掲げる。
1182年(養和2年)3月
現在の若宮が建つ場所に移築した鶴岡八幡宮を中心とした街づくりを計画し、八幡宮を京師(京の都)の「内裏(だいり/天皇の住む宮殿)」に例えて由比ヶ浜へ続く表参道を「朱雀大路」に倣って敷設する計画を立案す。
この表参道こそが現在の若宮大路通りであり、後に造成される段葛の原型ともなるもの。
なお、鶴岡社務職次第によると、段葛の造成は北条政子の素願(そがん/以前からの願い)だったと記し、頼朝卿はそれに呼応する形で現場にて監臨し、北条一族郎党が土石を運んだと記される。
つまり、鏡とは少し違ったことを記していることになる。
3月15日
吾妻鏡によると、この日、頼朝卿は北条政子の安産祈願のため段葛を造成したとある。
頼朝卿自身も現場へ監臨し、岳父(がくふ/妻パパ)の北条時政をはじめとした御家人衆たちも汗と泥で手足を汚しながら土石を運んだのだった。
8月12日の酉の刻(午後6時)
二代将軍・頼家が平産にて誕生する。
1185年(文治元年)5月
捕らわれながら鎌倉へ下った平宗盛(むねもり)父子は若宮大路(段葛)を通って三ノ鳥居前の横大路を経て、大倉御所へ到ったことが吾妻鏡に記されてい‥‥‥申す。マっ(ネタ切れ間近ピコンピコン状態)
この時ばかりは人づてに噂が広まったのか、付近の民衆が一目、平家方の総大将であった宗盛父子を見ようと段葛を東西から取り囲んだと伝わる。うきゃ
1211年(建暦元年)閏正月7日 亥ノ刻(午後10時)
火事により若宮大路西側北端に在った北条時房亭より以南の民家30余りが灰燼に帰す。
1215年(建保三年)8月19日
大風によって一ノ鳥居(浜ノ鳥居)が倒壊したとある。
10月13日
一ノ鳥居が新造される。この当時、一ノ鳥居の少し前から由比ヶ浜の砂浜が広がっていたらしい。(現在は一ノ鳥居と由比ヶ浜とに間がある)
室町時代
1388年6月
関東管領・上杉道合(憲方)により、鶴岡八幡宮の浜の大鳥居(現在の一の鳥居)が再建される。
室町時代の段葛は、どうやら「置石(おきいし)※殿中以下年中行事」や「作道(つくりみち)※鶴岡造営日記」、「置道(おきみち)※僧都記」と呼ばれる様子が散見される。
1497年(明応六年/室町時代)
1497年(明応六年/室町時代)に作図されたと伝わる「善宝寺寺地図」によれば、下ノ下馬のあたりには「下馬橋」という橋が架橋されていたことが記される。
⬆️鼻クソをホジり過ぎて鼻穴が乾いてナゼか鼻づまりを起こした時ほど噂の‥「善宝寺寺地図」 チッ!なんかねぇ…. ネタがねぇ
http://www.histeq.jp/
1495年(明応4年)8月15日
明治時代
1870年(明治3年)
7月、大鳥居並木敷地新開発のため、社人・岩瀬一学、大沢専輔らが段葛の坪数調査を執り行う。
1878年(明治11年)5月
現在の二の鳥居から由比ヶ浜へ延びる区間の段葛が官有地第三種に指定され、二の鳥居から由比ヶ浜へ延びる段葛が撤去される。
これにより段葛は大きく破壊され、旧来の姿を失った。
これはつまり、以北の約540メートルの区間は鶴岡八幡宮の境内地として残されたということになる。
これ以後、八幡宮は役所の協力を仰いで以北の段葛の復興に取り組んでいくことになる。
1888年(明治21年)1月
一の鳥居と二の鳥居の間に国鉄の横須賀線の線路が敷設され、これを境に段葛が現在のような石積みへと変貌を遂げる。
特に下ノ下馬付近に高架が建設されることになり、その付近の段葛はすべて更地にして、取り払った土石類はすべて線路の敷材に利用されたらしい。
つまり、段葛を撤去した理由としては線路の土手を造成するために大量の土が必要になり、止むを得ず二の鳥居から一の鳥居までの段葛を撤去したと云われるが、実際はそれだけはない。
藤沢・江ノ島方面から延伸されてきた江ノ電の線路が次第に鎌倉に迫ってきたことも理由に挙げられるとのこと。
ちょぃと下掲写真をご覧いただきたい。
この写真は1864年(元治元年/江戸時代)頃に「フェリックス・ベアト」という英国出身の写真家が現在の一の鳥居の前で撮影した貴重な写真でゴザる。
160年くらい前の写真ということでする。…”でする”?
カラーになっているが、この当時にカラー写真の技術はなく、現在の加工技術を用いて想定で精巧にカラー復元されたもの。
この写真を見ると道幅は現在の段葛(幅約9m)とそれほど遜色ないように思えるが、大きく異なる点が、現在のようなコンクリートやアスファルトなどないので土壌で造成されている。
それと、この当時の段葛は左右に土堤が盛られているのが分かる。
1904年(明治37年)
2月5日、表参道の敷石設置願いの上申が許可される。
1911年(明治43年)
江ノ電の全線が開通したが、これにより以南の段葛は完全に消滅した。
大正時代
1913年(大正2年)3月
国と神奈川県と政府より植樹許可をもらい、桜158本が段葛の両脇に植樹される。
同時にツツジも桜同様、段葛の両脇に植えられる。
この桜とツツジを植栽する様式は現在も踏襲され、桜は代替わりしているものの春になると花開いた桜やツツジが観られる。
1917年(大正6年)
1月8日、段葛の敷七段 一畝(いっせ/約30坪)一八歩(18坪)を境内地に編入す。
2月17日、史跡 段葛保存費用 補助金;658円が交付される。(現在の価格で263万2000円)
1918年(大正7年)
3月25日、改修工事が実施され、積み石の積み直し、および、二の鳥居脇に石版が立てられる。
⬆️大正7年の段葛の様子。 画像引用先:「鶴岡八幡宮」著 貫 達人より
上掲、大正7年の段葛の写真を見れば分かる通り、土壌の段葛の左右に桜と思わしき樹木が植えられている様子がうかがえる。
昭和時代
1929年(昭和4年)
8月26日、段葛の修理工事が実施される。
1949年(昭和24年)3月
江ノ電鎌倉駅は若宮大路のJR横須賀線鎌倉駅前八幡口付近にあった。(前述の段葛以南の破壊に紐づく)
1961年(昭和36年)
戦後まもない頃、コンクリート製の狛犬が奉納される。
1961年(昭和36年)〜1962年(昭和37年)
改修工事が実施される。この工事ではこれまで土が盛られていた段葛を石積みに変造す。
同時にこれまでの木製の灯籠が石灯籠へと置き換えられる。
平成時代
2014年(平成26年)11月1日〜2016年(平成28年)
「史跡鶴岡八幡宮境内整備事業 段葛整備工事」、通称「平成の改修」が開始す。
改修が行われた大きな理由は、段葛に植樹された桜の老衰化と、桜が根張りした石積みの崩壊が懸念されるようになったからである。
この工事に際し、段葛に植樹されていた桜のうち、まだ老衰していない桜約30本が八幡宮境内の平家池池畔に移植され、旧来248本植樹されていたものが、景観の見栄えを加味して樹間をとり177本へ減らされている。
桜と一緒に植栽されていたツツジは桜の育成を促すために約1600株が東日本大震災の被災地である岩手や宮城、福島県(5市町.8カ所)へ贈られ、移植されている。
段葛の両脇に並ぶ灯籠は、以前よりの44基を模す形で新たに50基を新調し、合計94基に増やす。
2016(平成28)年3月30日に無事、工事は完了。鶴岡八幡宮の宮司以下、神職たちによる「通り初めの儀式」が斎行され、ゲストとして招聘された歌舞伎役者・中村吉右衛門氏が舞を奉納す。
⬆️2005年11月に撮影された二の鳥居の姿(平成の改修前) ※画像引用先:https://ja.wikipedia.org
2017年(平成29年)
段葛の桜が若木に植え替えらる。これにより従来のような桜のトンネルにはなるには時間がかかるが、これから年々、桜のトンネルになっていく成長ぶりを見る楽しみも増える。