大江広元の墓(毛利季光の墓・島津忠久の墓)の歴史|鎌倉西御門・大倉

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大江広元の墓|鎌倉西御門・大倉

義時ならびに頼朝卿の法華堂跡の東谷奥には、三方(大江広元・毛利季光・島津忠久)の墳墓がある。

これら三方は、いずれも頼朝卿と故縁がある人物となる。

大江広元の墓の歴史

現在までの調査によると、大江広元の墓(毛利季光の墓・島津忠久の墓)の場所は古墳時代後期に造成された横穴墓だったことが明らかにされた。

その古墳時代の横穴墓を江戸時代後期、島津氏および毛利氏の子孫たち(薩摩藩&長州藩)が先祖供養のために転用し、現在見られるような三方(大江広元・毛利季光・島津忠久)の墳墓として墓石を納置したと伝わる。うきゃ

当地の灯籠やヤグラ(横穴)の周りに島津家の家紋(丸に十字)や毛利家の家紋(一文字に三つ星)の陰刻があしらわれているのは、このような理由があるからに他ならぬぅぁい。

江戸時代後期、年代は未詳だが毛利氏の末裔となる長州藩士たちによって大江広元の墓と毛利季光(もうり すえみつ)の墓が整備されたと伝わる。

案内板の内容

3つの墓(中央)大江広元

島津忠久(しまづただひさ/?〜1225年)は、鎌倉幕府の初代政所別当(しょだい まんどころ べっとう)を務め、源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献しました。公家出身の広元は、鎌倉と京都の貴族との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も北条政子や二代目執権・北条義時とともに幕府の運営を支えました。
この墓は、大江広元の四男が毛利氏の祖にあたる毛利季光である縁から、文政六年)1823年)に長州藩主・毛利斉煕(なりひろ)が造営したものです。

⬆️バス降車時にカバン奥から財布が出てこず、並ぶ乗客から「早よ、せぇいや!」‥という心の声が聞こえ始めてきた焦り具合ほど噂の‥‥「広元の墓内部の様子」


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毛利季光の墓の歴史

毛利季光は大江広元の四男としてこの世に生を得る。

以後、広元が頼朝卿に賜った所領のうち、相模国 毛利荘(別名「毛利庄」/現・神奈川県厚木市)を譲与され、当地を基盤に鎌倉幕府御家人として功名を立て、評定衆にまで列してい申す。

季光が名乗った毛利氏は以来、著名な戦国の雄・毛利元就へ受け継がれる毛利氏繁栄の礎を構築する。

定説では島津藩士(薩摩藩士)が当地を整備した後に長州藩士が来訪し、当地を整備したと云われる。

これが事実だとするならば、毛利季光の墓は1780年(安永年間)以降に長州藩士たちによって整備されたことになる。

⬆️注文品を開封した瞬間にモワっと漂ぅ、新品の匂いを感じた時の嬉しさほど噂の‥‥‥「毛利季光の墓内部の様子」

ヤグラ脇の墓誌の陰刻から整備された年代を紐解く!

毛利季光墓のヤグラ脇の墓誌には「1823年(文政六年)6月」の年忌の陰刻が見える。

⬆️クレーンゲームで定価2000円の”ぬい”を7000円かけて、やっと落とせた時にこみ上げる嬉悲しさほど噂の‥‥「毛利季光墓前の墓誌」

⬆️そして、陰刻

墓前の石灯篭の陰刻から整備された年代を紐解く!

また、墓前の石灯篭には1824年(文政七年)6月10日と記される。

ちなみに灯篭に見える陰刻は次の通り。

「奉献 正四位 下 行 陸奥守(官職よりも位階が高い場合は位階を先に記して「行」の文字を添えた)」
「大江廣元 朝臣 入道」
「覚阿弥陀佛 霊前(「覚阿」は広元の諡号)」
「石燈篭 一基」
「文政七年 申 六月十日」「六百回忌辰 ※忌辰(きしん/「忌日 (きにち) のこと)」

石段下の案内板の記述から整備された年代を紐解く!

三方の墓手前の石階段を降りた先には案内板があり、ここに毛利藩士(長州藩士)村田清風が文政六年に藩主の命令によって大江広元の墓を修営した旨の記述がある。(毛利季光墓の修営記録は記されていないが、位置的にみて至近距離にあるので、おそらく整備したと判断する方が自然)

案内板の内容

3つの墓(左)毛利季光

毛利季光(?〜1247年)は、鎌倉幕府の御家人で、幕府創設に貢献した大江広元の四男にあたり、長州藩主・毛利氏の祖となる人物です。
朝廷と幕府が争った承久の乱(じょうきゅう/1221年)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆(ひょうじょうしゅう)に就くなど重用されました。
しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(ほうじかっせん/1247年)で妻の実家である三浦氏に味方し、敗れた三浦一族と共に法華堂で自刃したと伝わります。
季光の墓所は、元々大江広元墓の整備と同じ文政六年(1823年)、毛利斉煕(なりひろ)により雪ノ下の鶯谷(うぐいすだに/八幡宮の西側)に造営されましたが、大正10年(1921年)にこの地に移されました。


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島津忠久の墓の歴史

 

島津系図によると頼朝卿の寵愛を受けた側室・丹後局(たんごのつぼね)が懐妊し、政子の嫉妬を恐れて京師(京の都)へ逃れ、京都にて子を産んだ。

これが島津氏の祖先と伝わる島津忠久となる。

江戸時代後期の当地の整備

1772年〜1780年(安永年間)に島津忠久の子孫となる薩摩藩士・島津重豪(しまづ しげひで)が当地を整備した。

特に1779年(安永八年)には当地の頼朝卿の墓が整備されたことが記される。

島津重豪と頼朝卿との関係(血の繋がりなど)

島津氏の祖先である島津忠久の母ジャは頼朝卿の乳母だった故縁から、重豪が忠久の墓を建てる際、頼朝卿の墓も整備したと伝わる。

案内板の内容

3つの墓(右)島津忠久

島津忠久(しまづただひさ/?〜1227年)は、鎌倉幕府の御家人で、薩摩藩主・島津氏の祖にあたる人物です。
忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州島津荘(しまづのそう)の惣地頭(そうじとう)に補任されました。
島津家には忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永八年(1779年)、藩主・島津重豪(しげひで)が頼朝墓に近いこの地に墓を造営しました。

※以上の内容は鎌倉市教育委員会が記し、2022年(令和四年)3月に看板として当地に設置したもの。

相模国風土記に描かれる江戸時代後期の当地の様子

もともとこの三方の墓は横穴古墳内部に五輪塔を納置する形で奉祀し、現在みられる三方の墓の姿は江戸時代後期に修営された後の姿となる。

上掲絵図(相模国風土記)をご覧になって感づいた方も多いと思うが、上掲絵図には義時の法華堂や義時の墓は一切、記されていない。

また、毛利季光の墓が省略されているが、これは前述したように毛利季光の墓はこの当時、雪ノ下の鶯谷に在ったので当地には無かったことを意味する。

⬆️上掲地図の目玉親父の場所(志一稲荷)が鶯谷になる

それとおそらく「忠久墓」「廣元墓」と記された手前の平場(広場)こそが、現在も見られる義時法華堂の跡地と思われる。(絵図では緻密細密に描かれていない)

面白いのは忠久墓の横穴内部の灯篭や暮石の配置がそのまま描かれていること。これは絵図作成の当時から墓の様子が変わっていないことを意味する。

⬆️忠久墓内部の灯篭と暮石の配置

⬆️相模国風土記に描かれる忠久墓内部の灯篭と暮石の配置

⬆️広元墓内部の灯篭と暮石の配置

⬆️相模国風土記に描かれる広元墓内部の灯篭と暮石の配置

広元の墓内部は左側の灯篭が描かれていない。‥‥‥これは描けなくなって省略されたのだろぅか。それとも絵図が描かれた当時は無かったのか。‥‥はてさて。

義時法華堂(義時墓)が省略されている理由

おそらく江戸時代後期になると武家統治の世をもたらした義時という人物の功績は忘れ去られ、それ以上に義時を育て、武家統治の世の礎を築いた源頼朝という人物の方が評価を受けていた‥‥のだろぅか。

もしくは単純に頼朝墓に見られるような層塔様式の義時墓なるものが無かったためともいえる。

(義時の墳墓は法華堂様式で営まれ、その法華堂は焼失後、再建されなかった。つまり、義時の墓を示す墓標のようなものが無かったため‥‥とも。)

三方の墓前から撮影した麓(義時法華堂広場)様子

上掲写真に見て分かるように三方の墓までは義時法華堂の平場(広場)から続く、100段近い石段をあがった先に位置する。

この石階段には手スリが設置されていることから、”地震”の振動ほど肢体に”自信”の無い方(不安を抱える方)でも、まぁ、程よく安心はできる‥‥のか?(無いよりはマシ)

鎌倉十二所にはもう1つの大江広元の墓がある!どっちが本物?

鎌倉以東の地、鎌倉十二所(じゅうにそ)付近にも実はもぅ1つ、「伝・大江広元の墓」と称する大江広元の墓がある。

つまり、大江広元の墓が2つ存在することになる。

⬆️ストローを勢いよくブッ刺したら容器の中に入りやがって、コレどないまんねん! ‥ってなった時の心境ほど噂の‥‥「もう1つ(西御門)の広元の墓」

地元では古くから西御門の広元墓は、この十二所の山奥にある広元墓を遥拝するために建てられたとする言い伝えがある。(十二所の山上まで行くのが困難だからという理由らしい)

ただ、大江広元の邸宅は鎌倉中に数ヶ所あり、その中の1つが大倉の義時邸付近に所在したことから、ひょっとすると‥コチラが本当の広元の墓と云われる説もある。

しクぁし!

現在までの通説では、西御門の広元墓は、広元の子孫である毛利氏が江戸時代に建立したとされ、だとすれば本来の墓は十二所という事になる。

ただ、江戸時代に広元墓を建てる際、義時法華堂の平場も整備されている事から、ひょっとすると広元のボーン(お骨)を西御門の方ヘ移してきた可能性もある。

だとすれば、いずれが広元の本当の墓なのか区別が難しくなる


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大江広元の墓が2つある理由

鎌倉に大江広元の墓が2つある理由は、前述のように江戸時代に大江広元の子孫である毛利氏が鎌倉の中心地付近(八幡宮近く)に建てた事による。

鎌倉時代の慣習で例えるならば、源静香‥‥ではなく、源頼朝卿!!や北条義時ともども死没後は速やかに自らの邸宅付近の山上に埋葬されていることが分かる。

大江広元で例えると、頼朝卿より最初に賜った邸宅が十二所とされた事から、死没後はその周辺の山上(高台)が検分され、現在の塔の峰が選ばれたとみる。(下掲地図の目玉親父の場所)

⬆️大トイレに飛び込んだら据付テッシュ切れで究極の選択(ハンド)を迫られた時ほど噂の‥‥‥「大江広元邸趾」

十二所の広元の墓の場所

広元の墓が十二所の山奥に建てられた理由

‥‥‥については下記、「伝・大江広元の墓と歴史|鎌倉市十二所」を要チェックや!

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