鶴岡八幡宮の段葛とは?名前の由来や長さ・見どころ(桜のトンネルor夜桜ライトアップ)を‥‥知るつもり❓

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鶴岡八幡宮・段葛【国指定 史跡】

⬆️鶴岡名物❗️段葛の夜桜

造成年

1182年(養和2年)3月 ※鎌倉時代

距離

588m
※造成当初は約1.25キロメートル

設置場所(所在地)

二の鳥居〜三の鳥居前まで (※現在)
※当時(鎌倉時代)
は一の鳥居〜三の鳥居前まで

発願者

源頼朝卿

所有者

鶴岡八幡宮

段葛の読み方

だんかずら

段葛とは?

鎌倉駅(JR &江ノ電)の東口を出ると、手前に大通りが見える。この大通りを「若宮大路通り」と呼ぶ。

この若宮大路通りの中心には段葛(だんかずら)と呼ばれる一段、盛り上がったクソ長ゲェ道路が見える。

これが段葛と呼ばれる言わば、鶴岡八幡宮へ参拝するための参道となる。

「若宮大路通」と「段葛」の違い

若宮大路通りと段葛との目で見えるハッキリきりきりキリンレモンの開封後の刺激ほどのハッキリとした違いは、段葛は「鶴岡八幡宮の所有地」、対して「若宮大路通り」は公道という点。

段葛の意味

段葛の段は「壇」を意味し、「他よりも一段高い地」を意味する。

葛は「葛石(かずらいし)」のこと。左右の両縁を葛石で固め、その内部に土を盛って周りよりも一段高くした道という意味になる。

現在で言う葛石とは縁石(へりいし)を兼ねた長方形の石のことを指すが、この当時は石コロを長方形に加工する技術や、それを運搬することすら容易ではないことから、まさに置石といった方が分かりやすい。

⬆️3日無風呂で過ごした時にニオった枕の腐臭ほど‥噂の段葛の「葛石」 どんな度合いや

手で何とか持てるほどの大きさの大石を積み上げて、それを葛石(縁石)としたとする方が理解が進む。

現代での葛石は、雨水などを遮断する目的で柱、地覆 、土壁の下に敷く。或いは土壌のまま放置するよりは視覚的な見た目が向上し、手間がかかるが高級感が増す。

段葛の名前の由来

実はいつ頃から「段葛」と呼ばれるようになったのかは判然とはしない。

ただ、「かずら石」を積み上げて造成されたことから、いつしか「段葛」と呼ばれることになったと云われる。

鎌倉時代に編纂された春日社記録(中臣祐定記)の1232年(寛喜4年)閏9月13日条には、「壇カツラヲタタミ、壁石ヲ立」と記されることから、すでに鎌倉時代には「壇カツラ」と呼ばれていたと推定されてい‥‥‥申す。きゃ

段葛の別名

段葛は俗称になりますが、時代を下りながら様々な呼び方がされています。たとえば‥‥‥

「置石(おきいし)」、「置き路(おきみち)」、七度小路、作道(つくりみち)、千度小路、千度壇(せんどだん)…etc

これらの名前は「風土記稿(江戸時代後期編纂)」などの時代々々に編纂された古書物に登場しています。

段葛が造られた理由

段葛の真の造成目的とは単に安産祈願だけだったわけではなく、若宮への参詣道として造られた。

しかしながら、位置的に軍事的な意味合いをもたせて造成されたとも十二分に考えられる。

段葛の造成が成って以降、段葛の左右には埋め立てられはじめ、やがて若宮大路へと発展していく。

妻の政子が懐妊したということで頼朝卿は安産祈願を兼ねて自らが先頭に立って現場を指揮したとも伝わる。

岳父(がくふ/妻パパ)となる北条時政、他の御家人衆も葛石を運んだと云われ、そうこうしているうちに政子が2代将軍となる頼家を平産してい‥‥‥申す。ポンっ!(勢い良い安産を表現)

一段高くして造成された理由

しかし、なぜワザワザ労力と時間を費やして段を高くする必要があったのか❓

源氏の権威(権力)を内外に示すため

当時の源氏は平家よりも下火にあり、まさに「平家にあらずんば人にあらず」の世。源氏の権威を内外に示すことで平家からの離反者を調略し、勢力を強める目的があったとも考えられる。

土地を均等に平すため

平家物語・下の征夷大将軍 院宣の項に『作路 十余町見下たり』との記述があり、これによれば段葛を挟んだその両側には、やや勾配があったらしく、東側が高く西側は低地だったとのこと。

そこで一段高くして均等を図ったとも云われる。

段葛の場所が湿地帯(沼沢地)だったので埋め立てるため

段葛が初めて造成された当初、段葛の左右が沼沢地(しょうたくち/湿地帯)だったと云われるがある。

これは近年、段葛周辺の発掘調査によって明らかにされたことだが、どうやら沼沢地が点在していたようでそれを埋め立てる目的で土石を積んだと云われる。

鎌倉幕府側の公式歴史書となる吾妻鏡にも「曲横を直して」などと記されるように、これは曲横の道が段葛のあたりに存在していたと見れる。

曲横の道を敷いた理由こそが、まさにぅぃ!沼沢地が在ったからだと考えられる。

なお、段葛の左右の部分、現在でいうと若宮大路の公道部分は、ほとんど湿地帯だった説が濃厚とされる。

1211年(建暦元年)閏正月7日お亥ノ刻(午前10時)、北条時房亭より以南の人屋30余宇が灰燼したと記されるが、当時でも現在と変わらず段葛と全長は約2キロメートルはあったはず。

そこにわずか30余りしか家屋が無いというのも不思議しぎしぎ摩訶不思議な話であるが、一説に湿地帯が広がっていたため、家屋を建てることができなかったという見解もある。

1215年(建保三年)8月19日、大風によって鶴岡八幡宮の前浜鳥居が倒壊し、同10月30日には「鶴岳の浜の鳥居」が新造されたとする。

現在までの見解では、この前浜は御霊神社の前の浜と解されおり、これは浜の鳥居(現在の一の鳥居)が建つ、下の下馬付近までの地を指す。

つまり、下の下馬付近まで砂浜が広がっていた=海が近かったことを意味する。

段葛が造成されたから以降、今度は現在の若宮大路通りの公道部分の埋め立て工事も実施されるようになり、その結果、発掘調査において厚さ数センチもの土壇が数段ずつ見つかっているのも、このためと思われる。

同時にこれは段葛が造成された後に若宮大路が埋め立てられたことを意味する。

現在までの研究によってほぼ決定的となるのが、建暦二年3月16日条にある「前浜の辺りを屋地」としたと記されるが、これは湿地の埋め立てが完了して、やっとこさ家屋が建てられる宅地造成が完了したことを意味するとのこと。

段葛の特徴

東に27度ブレている

実は段葛は27度、東にブレて(ズレて)造成されており、直線的な南北線ではない。27度ズラした明確な理由は今日に到っても未詳とされる。

もし、当初から27度ズラして造成されたのであれば、以下の京師をモチーフとした説に紐づけることができる

京師(京の都)がモチーフとされた

現在までの通説では段葛および若宮大路の造成に際し、頼朝卿は京師をモチーフとして造成計画を練ったとされる。

京師をモチーフとしたのであれば、東方の祇園山、西北方の石切山を避けたとする有力説が近年まであった。

具体的には大内裏の鬼門にあたる北東に比叡山があり、その真南に東山が位置する。

その叡山と東山を点と線で結び、平行に移動させて、京都北に位置する船岡山から引いた線が朱雀大路にあたる。

船岡山から1380メートル(460丈)南下した地点が一条大路となる。

一条大路からさらに460丈下った地点が二条大路となり、一条大路と二条大路との間が大内裏の南北の距離となる。


鎌倉考古学研究会の馬淵和夫氏の見解によると、上記の様相をそのまま鎌倉に落とし込んだとする。

それが先述したように鎌倉の比叡山にあたる天台山、東山にあたる布張山。

それらを点と線で結んで平行移動させた地点が船岡山にあたる十王岩。

その十王岩から460丈南下した地点に京都の一条大路にあたる横大路。

鶴岡八幡宮は京師におきかえると大内裏にあたることから、横大路の南側ではなく、北側に配置させたとする。

養和元年5月より以前に天台山と布張山との位置関係や十王岩の所在など、すでに計測されていたとする27度傾き説に紐づくものとなる。


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段葛の南端は海だった

頼朝卿が段葛を築いた頃は現在のような公道(陸地)などではなく、おそらく現在の一の鳥居あたりまで海が迫っていたことが想像につく。

これはつまり、長谷小路〜大町大路の区間が若宮大路と直交する下ノ下馬付近まで、浜の鳥居だったことを意味する。(この当時は全長約900メートルとされる)


鎌倉の段葛は鎌倉でしか見れない

このような段葛は全国でも鎌倉でしか見れないものであり、頼朝卿の京都渇仰(京都への信仰心)の一例とされる。

このような一段高くした道は鎌倉時代の当時、世界の都市においても例がなかったという学説もある。

鎌倉時代の段葛は地下に埋もれていた?!

実は近年、三の鳥居すぐ後ろの「赤橋」前にて、昭和37年1月20日に公共下水道工事が実施されており、のぉあんとぉっ!地表下約180cmで敷石が発見されています。

⬆️鶴岡八幡宮・赤橋(左右の橋ではない)

この石を分析したところ、12世紀の石であることが明らかにされており、さらに調査が進むにつれ、基部から二列にわたる石積まで発見されたとのこと。

これらの石の中には貝殻の付着した伊豆石などが数多に発見されており、現在の路面から下1mに砂、その下に川石、さらにその下に砕石層、そして最下層に海砂の層があったことも明らかにされた。

つまり、平安〜鎌倉時代の参道が約2mも地下に埋もれていたことになる。

実のところ、段葛ならびに若宮大路の以南・以北の発掘調査は実施されていないので、これについては安易な回答ができかねる状況であると云わざるを得ない。

じゃがしクぁし!

砕石層とは人工的に砕石した石コロころころドコいった‥‥のことを指し、その下に海砂の層があったということは‥‥かつては砂浜だった説、もしくは鎌倉時代、由比ヶ浜の浜砂を運んできて下に敷き詰めたということも考えられるということ。

その上に川石、さらにその上に砂が敷かれている状況を加味すると人為的に造成された可能性も指摘される。

もし川石が下層にあった場合、見解は少し変わり、鎌倉の山に囲まれた地形を加味して山の小川が土砂を運んできて山積したという可能性もある。

えぇっ?段葛は二の鳥居前と三の鳥居前とで道幅が違う?

ちょぃと下掲写真をご覧くださいな。

周囲の景観に気を取られてあまり気づきにくいのですが、段葛は二の鳥居から→三の鳥居に向かうにつれ、微妙に横幅が異なります。

二の鳥居の出入口(クソでかい狛犬像の奥の石灯籠のところ)

  • 横幅:約5.1m(もっとも横幅がある)

両側の花壇を含めると二の鳥居のあたりで約9m近くにはなる。

二の鳥居と三の鳥居の中間地点?(住友銀行前の区切り)

  • 横幅:約4.3m

三の鳥居前の出入口の道幅

  • 横幅:約2.9m(もっとも横幅がせまい/花壇を含めると約6メートル。)

 

‥‥いかがですかぃ?

この写真をご覧になって見れば分かるように二の鳥居前と三の鳥居前とで道幅が大きく異なることが分かります。その差なんと2メートル!

これはつまり二の鳥居から→三の鳥居へ向かうにつれ、道幅が狭くなっていることを意味する。

このような技法は俗に「遠近法」と云われ、この当時、世界でもこの鎌倉だけに見られた特徴でもある。

ちなみに西洋では、これより300年後に遠近法を最初に採り入れて作画されたと云われるレオナルド・ダ・ヴィンチのジョコンダ婦人像(モナ・リザ)が登場する。

なお、「古事談」や「中山内府政治記」などに記される内容からしても京都大内裏に、かつて存在した陽明門や待賢門などにも置路が存在した可能性があると指摘する。(鶴岡八幡宮宮司・白井永二氏 談)

道幅を変えた理由

このように道幅を変えることにより、南側から北側を見ると実際よりも道が長く見える。

言い換えると由比ヶ浜手前に、そびえる浜の鳥居から鶴岡八幡宮の本宮を見た時、キャナリ(訳:かなり)実際によりかなり距離があるように見える。

なぜ遠近法が用いられた?「遠近法が採用された理由」

由比ヶ浜沿いの街道から八幡宮の本殿(本宮)をワザと見えづらくする工夫を凝らしたとも。

確かに、遠近法を用いることにより、一の鳥居(由比ヶ浜街道沿い)から本宮を見た時、本宮が遠く見える。(現在では分かりづらい)

【参考】一の鳥居から見た八幡宮の本宮(本殿)

⬆️一の鳥居の間から見た本宮

⬆️アップ画像

このように遠近法を用いた理由は、敵の目を撹乱するためであり、つまりは幕府の防御に一役買っていた訳です。

そもそも頼朝卿が鎌倉の地に幕府を置いた理由は、鎌倉の地が東西北が山地に囲まれ、南面が海に面した要害の地だったからです。そこで急所となる南面へ向けた段葛(若宮大路)にも仕掛けを凝らしたのでしょう。

本当に段葛は遠近法が採り入れられて造成されたのか?

ただし!このような遠近法が鎌倉時代にすでに認知されていたのかは判然としない。

史実によれば、日本に遠近法が伝来したのは安土桃山時代の西洋の宣教師たちに拠るものとされ、これが広まったのは江戸時代に入ってからだと云われる説もある。

つまり、頼朝卿が段葛を造成する際、遠近法を構想に採り入れていたのかは不明と言わざるを得ない。

ただ、現在見られるような段葛の景観が整ったのが大正7年の改修工事以後とも言われ、それ以前に遠近法が採用されていたのかは、今となってはそれを論証する史料が乏しいのも事実。

もし、若宮大路周辺を全体的に発掘できるのであれば、ひょっとするとこの課題に対しての回答も容易に導き出せるかもしれない。

段葛の東側は西側より地表が高い

実は若宮大路の西側車道部分は東側の車道部分よりも10㎝〜20㎝ほど低い。

これは先ほどの湿地帯の話に戻すと、まさにぅぃ!西側は東側よりも湿地帯が多かったことを意味するとも考えられる。

この様相は頼朝卿が段葛を造成した頃から変わらないとされ、現在までの研究結果では西側からの攻撃に対して防御を考慮したと考えられてい‥‥‥申す。タっ(最近ネタやばぃ)

そぅ考えると段葛は先述したように単に若宮(八幡宮)への参詣道ではなく、西側の切り通しを突破された有事の際に活用できる鎌倉中心部の防御を担う、まさにぅぃ万里の長城のミニ版のような軍事的防衛線だった可能性も充分にアリエール。‥‥落ち具合いどぅ❓ なんの話をしとる❗️

軍事目的だった可能性は実証されていた❗️

なお、若宮大路が戦場ともなった和田合戦や新田義貞の鎌倉攻めの折、実際に防御に一役買っていたとのこと。


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「横大路」と呼ばれた3カ所の道があった

現在の段葛の中へ進入するには以下の3ヶ所となる。

  • 二の鳥居から
  • 二の鳥居と三の鳥居の間から(住銀前の道)
  • 三の鳥居前から

この3カ所の場所は‥‥そぅ!上掲の「段葛の道幅の項」で掲載した写真の位置になる。

鎌倉時代において段葛に進入できた箇所

鎌倉時代に造成された当初は北側から「上ノ下馬」「中ノ下馬(二の鳥居付近)」「下ノ下馬」という3カ所だったと云われ、「下馬」名前の付くとおり、人々は下馬で馬を降りて歩いて段葛を通行した。

見方を変えると、段葛とは八幡宮の参詣道として神聖視され、これは源氏の権威の度合いを誇示するものだったともいえる。

当時の「上ノ下馬」「中ノ下馬」「下ノ下馬」ぞれぞれの場所はドコ?

「鎌倉市史」によれば次のように説明される。うきゃ

  • 「上ノ下馬(かみのげば)」‥‥‥現在の「横大路(現在の三の鳥居前の県道204号線)」
  • 「中ノ下馬(なかのげば)」‥‥‥小町口(二の鳥居周辺)
  • 「下ノ下馬(しものげば)」‥‥‥湘南信用金庫 南側の歩道(鎌倉市と三浦郡葉山町を結ぶ県道311号線(由比ヶ浜大通り)

これらそれぞれの下馬には横大路と呼ばれた道路が段葛を挟み込む形で東西に延びていたとされ、横大路と直交する下馬には「釘貫(くぎぬき)」と称した門が建てられていたとのこと。

人々はこの釘貫の前で馬を降りて歩いて段葛を進んだと伝わる。

ちょいと下掲写真をご覧くだせぇナ。ナっ

この写真は横浜開港資料館にて保管されている江戸時代後期の段葛の写真となる。

この写真の前方は海岸(由比ヶ浜)であり、右手に延びる道は長谷の方へと続く(現在の長谷小路か)。

つまり、この写真は一の鳥居(浜の鳥居)付近で撮影されたとみれる。

この写真には冠木門のような簡素な木組みの門が見えるが、これこそが釘貫になる。

どうも先が尖った木を3本組み合わせて簡易的に建てた門を「釘貫」と呼んでいたらしい。

段葛には数カ所「橋」が架かっていた?

この段葛のある若宮大路通りは鎌倉の中心地でもあったことから、その周辺には幕府に仕える武士たちの屋敷が軒を連ねていたと伝わる。

吾妻鏡の1229年(安貞3年)正月15日条によれば、将軍御所の西門前に段葛へ向けた橋が架橋されていたとされ、他にも以下で挙げるような有力御家人衆の屋敷にも段葛へ向けた橋が架橋されていたとのこと。

  • 北条時房(顕時)邸
  • 北条泰時(時頼)邸

なお、当時の有力御家人の屋敷の周囲には溝を設けるのが主流とされ、はたまた、段葛自体にも側溝が設けられていたことから、これらの溝を跨ぐために橋が架橋されていたとのこと。

ただ、如何に有力御家人とはいえ、段葛へ向けた表門を構えることはしても、段葛へ向けて開くような構造にすることだけは恐れ多いと憚って内開きにしていた模様。

その他の武士たちに関しても、仮に若宮大路(段葛)沿いに屋敷を構えたとしても、大路に背を向けて建てることが原則とされ、表門を若宮大路側に構えることが許されなかったと伝わる

つまりそれほど段葛は八幡宮の参道として神聖視され、常に清浄性を保つことが義務付けられていたということになる。

段葛へ進入できる道路には橋が架かっていた?!

1497年(明応六年/室町時代)に作図されたと伝わる「善宝寺寺地図」によれば、下ノ下馬のあたりには「下馬橋」という橋が架橋されていたことが記される。

実は現在の湘南信用金庫の南側歩道と車道の間に橋の高欄(欄干/手スリ)のような物体が置かれている。

この物体こそ、往時の下馬橋を偲んで石造りで復元された下馬橋の高欄であり、この場所に下馬橋が確かに存在したことを示すシンボルとなる。

⬆️隠毛を引っこ抜いた時に白髪が混じっていた時ほどに噂の‥「下馬橋」 ….どんな度合いや

高欄の奥に見える建物が「湘南信用金庫(鎌倉営業部)」。

⬆️少し見づらいが「げばばし」と高欄の親柱に陰刻されてい‥‥る。(耐)

若宮大路には側溝があった!

これは段葛ではなく、段葛の左右に延びる若宮大路の車道ことを指すが、往時の「若宮大路」は現在でいうところの下水道の役割も担っていたとのこと。

若宮大路で発掘調査が実施された際、雪ノ下一丁目371番1地点から「一丈 伊北太郎跡」「一丈 くにの井の四郎入道跡」と書かれた2つの人名木簡が出土したとのこと。オホっ

現在の若宮大路の両端の車道部には、かつてドブ(側溝)が掘られていたようで、人々はこの溝へ向けて糞尿(ションベンやクソ)を切れ痔になるほど激しく垂れ流していたとのこと。……..。……?

なお、現在の三ノ鳥居(八幡宮入口)周辺で側溝の遺構が発見されており、溝幅約3m、深さ約1.5mだったとのこと。また、東端の側溝と西端の側溝との間隔は33.6mことまで明らかにされた。

だとすると往時の三ノ鳥居前の道幅は現在よりも随分と広かったことになる。

ただ、先述したように若宮大路は当初、湿地帯だったことから若宮大路の埋め立て後に家屋が建ち並ぶようになったが、クソとションベンをそこらで撒き散らす者共が多かったため、糞尿の臭いで物凄かったのだろぅか。

そこで下水道を兼ねた側溝を掘って、そこへ垂れ流すようにしたとも考えられる。

鎌倉時代の若宮大路通りは30mもあった?!

前述のように鎌倉時代の若宮大路通りは三ノ鳥居側で横幅11.2丈(約33.6m)もあったとされることから、これは現在の2倍以上になる。

だとすれば段葛の横幅も単純に見積もって現在の2倍くらいあったとも考えられる。

これが二ノ鳥居あたり(現在の鎌倉駅付近)まで下ると幅60mもあったということから、遠近法の概念が採り入れられていた背景を加味すれば、一ノ鳥居(浜ノ鳥居)あたりで100m近くになっていたのではないか❓‥‥という推測も成り立つ。

段葛はどこからどこまで?

  • 二の鳥居から三の鳥居まで(石積みされた区間)

段葛と若宮大路通り(車道)

段葛の長さと徒歩での所要時間

二の鳥居から三の鳥居までの距離と所要時間

現在の段葛の入口となる二の鳥居から、八幡宮の境内入口となる三の鳥居前までは588mあります。所要時間にすると約6分。

一の鳥居から三の鳥居までの所要時間

往時は一の鳥居から段葛が続いていたので距離にして約1.25㎞です。所要時間にすると約15分。

えぇっ?!鎌倉時代の段葛は一の鳥居からでは無かった!!

現在見られるような石コロを積み上げて造成された段葛は鎌倉時代の当時、上述の「下馬橋」のあった「下ノ下馬(しものげば)」からはじまっていたと伝わる。

1732年(享保17年/江戸後期)に編纂された「鶴岡八幡宮境内図」や1834年(天保5年)の「相中留恩記略」においても明らか。

「下ノ下馬」から由比ヶ浜、もしくは一の鳥居へ至る道筋は、「ごく普通の平坦な道」だったようです。ウフ

詳しい図

段葛の1年「桜や四季の彩り」

春「段葛の桜並木道」

春はこの段葛が年内で最高の見せ場となるステージです。なんといっても段葛の左右に植栽される木は「桜(ソメイヨシノ)」、その桜の間に植栽される花が「ツツジ」だからです。

冬が明ければ先に桜が開花して春の訪れを告げ、遅れる形でGWの頃、ツツジが一斉に開花します。一年の内でもっと華やいだ最高の演出を魅せてくれまする。

⬆️3分〜5分咲きの段葛の桜(2021年3月25日に撮影)

⬆️満開の段葛の桜(2021年3月31日に撮影)⬆️2020年4月5日に撮影(すでに大半が散っている)

桜のトンネル

段葛の桜は2014年〜2016年(平成の改修)の時に、新たに植樹されたものですが、以前の桜は育っていたため、満開を迎えると「桜のトンネル」ができあがっていたのです。

現在の桜(ソメイヨシノ)は約5年たらず。ソメイヨシノは40年は樹勢を保つので、まだまだこれからの生長が楽しみでゴザんす。

⬆️改修前に撮影した段葛の様子。両花壇の桜の枝が伸びてトンネルができあがっているのがお分かりいただけるだろうか。

⬆️昭和50年頃の段葛の様子

5月にはツツジ!

段葛は大正時代より、上記、桜とツツジが植栽されています。この様式は現在まで踏襲され、桜が終わって5月になると今度はツツジが見頃を迎えます。

⬆️2021年3月31日に撮影。日当たりが良かったのかこの箇所に植栽されたツツジだけが開花していた

⬆️他の箇所はほとんど上掲写真のような蕾(ツボミ)


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夜桜と夜ライトアップされた段葛

ライトアップされた段葛と夜桜の様子です。

⬆️晴天の夜であれば上掲写真のような綺麗な写真も撮れる

このようにライトアップされた夜桜が街路樹のイルミネーションに見えるのは日本広しといえど屈指。

⬆️写真は二の鳥居前から撮影したところ …太郎と次郎もついにマスクをしている

⬆️2021年3月24日に撮影したもの

平時の段葛のライトアップ

段葛の両サイドの桜やツツジが植えられている花壇の手前や間には灯籠やライトが設置されており、特に何もイベント行事がない時でも土日祝日・平日関係なく日暮れ〜21時までこれらが点灯しています。

⬆️ライトアップされる段葛

ただねぇ、「ライトアップ」というイベント行事として特に点灯されているワケではゴザんせんが、「夜の段葛」というのも中々にして風趣が感じられて良いものでゴザんす。

付近に宿泊されているならば、浴衣でビール片手に段葛を歩き回るってのも良いものでガンす。(ゴミの始末はしっかりと)

このライトアップされる段葛を見ていると、なんだかこぅ不思議と、きな粉餅を5本、むしょうに食べたくなってくるような気持ちを起こさせる。…なんで5本やねん

段葛のライトアップ装置

段葛のライトアップは幻想的で実に綺麗なのですが、実は何種類かのライトアップ装置が設置されていますので以下にご紹介しておきまする。

段葛のライトその1

段葛の花壇の間に設置されているライトです。道路脇に設置されています。

段葛のライトその2

段葛の左右両側の花壇に設置されているライトです。主に桜を照射できるように真下に少し斜め向きで設置されています。

段葛の石灯籠その1

この石灯籠は三の鳥居前の石灯籠。

段葛の石灯籠その2

この石灯籠は二の鳥居のすぐ後ろに設置されている石灯籠。

段葛の石灯籠その3

この石灯籠は両側の花壇内、桜と桜の間に設置されている石灯籠。

 

以上、これらのライトアップ装置の設置位置、照射角度などの相乗効果によって幻想的な空間が創出されてい申すことになる。

正月三が日の段葛の様子

元日未明からこの段葛を通行する鶴岡八幡宮の初詣客の数はすさまじいものがありんす。

それもそのハズ、例年、おおむね200万人が参拝に訪れることからこの現状が生じても何ら不思議ではありんせん。

なお、神奈川県内では川崎大師がもっとも参拝者が多く、2番目が鶴岡八幡宮です。

神幸祭

神幸祭は鶴岡八幡宮でもっとも重要な祭礼であり、例年9月15日に斎行されます。

当日は午前10時より本殿にて神饌を献じ、祝詞を奏上するなどの神事を行う。

そして午後1時から御祭神の神霊を神輿に遷し、本殿から3基の神輿で揺すられながら、二の鳥居までの約600mを巡幸します。

見どころは61段の本宮前(楼門前)のお神輿の渡御と、二の鳥居付近に設けられた御旅所にて奉奏される「八乙女の舞」です。

段葛の所有者は誰?

鶴岡八幡宮の公式サイトを閲覧すれば分かりますが、段葛で過度な撮影や参拝客の邪魔になるような撮影ロケ、ドローンの使用を禁止する旨の記載がある。

このことからも察することができるように、段葛は官有ではなく、鶴岡八幡宮の私有地となる。

したがって段葛で特殊なロケのような撮影をされる場合、鶴岡八幡宮の許可が必要になる。


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そのほかの段葛の見どころ

どデカイ狛犬

向かい見て右側「阿形」の狛犬

ジるぅぅぅぅ〜ぉぇっ(訳:次郎):『かっ、カラシ入れすぎとぅぁぁ〜っ!クかぁ〜〜!!』

向かい見て左側「吽形」の狛犬

ツぅあろぅ(訳:太郎):『ワすぃが日本一ド頭のデカイ狛犬だぎゃ!円周率暗記500桁達成!』…脳ミソも詰まっているということ

いずれも台座を含めた像高が約3.8mで1961年(昭和36年)に奉納された狛犬とのこと。

‥‥‥

‥‥‥。

2021年度はコロナ感染拡大に我慢できず、ついに太郎と次郎もマスク着用!

2021年は新型コロナウイルスという未知なる病原体が蔓延し、世界人類が未曾有の危機に瀕してい‥‥ます。…….。(無言バージョン)

そのコロナ拡大感染防止の一環により、段葛の太郎と次郎(両狛犬像)もなんとぉぅ!マスクすくすく スクールでもマスク!トぅ!‥‥的なほどマスクをしてい‥る。…意味不明

ちなみにこのマスク、縦60㎝、横120㎝もあるとのことなので、人が用いればマントにできて空をも飛べる大きさ。…どうやって空飛ぶねん

左下に見える赤色の模様は八幡宮の扁額にも見える「向かい鳩のマーク」です。授与所でもこのマスクが販売されています。太郎と次郎のファンはぜひ!

なお、太郎(ツぅあろぅ)と次郎(ジるぅぅぅぅ〜ぉぇっ)とは、拙者が勝手に付けたネーミングでゴザりんす。

毎度おなじみ❗️鎌倉町青年会の石版(石碑)

上記、太郎(ツぅあろぅ)と次郎(ジるぅぅぅぅ〜)のすぐ後ろには写真のような高さ1メートルくらいの石版が建てられています。 ”ぉぇっ”付け忘れ

この石版には下記のような碑文が刻字されています。

碑文

段葛(だんかずら)一(いつ)に置石(おきいし)と称す 寿永(じゅえい)元年(1182)三月 頼朝
其の夫人政子の平産(安産)祈祷の為め 鶴丘(八幡宮)社頭(しゃとう/八幡宮の前)より
由比海濱大鳥居辺に亘(わた)りて之を築く 其の土
石は北条時政(ときまさ)を始め源氏家の諸将の 是が運搬
に従へる所のものなり 明治の初年に至り二
の鳥居以南其の形失へり

大正七年三月建立 鎌倉町青年會

なお、上記、鎌倉町青年會(会)が奉献した上掲写真のような石碑は鎌倉の至る場所に建てられているので要チェックやでぃ!by.彦一

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