【佐介(佐助ヶ谷)の歴史】地名の由来や意味とは❓|神奈川県 鎌倉市

スポンサードリンク

「佐助」の地名の由来

現在の「佐助」の地名は1965年(昭和40年)2月1日および、(昭和43年)1月1日に施行された住所表示以降に定められた地名となる。うきゃ

佐助の地名の由来は以下で述べるように諸説あって今日まで未詳とされるが、概ね「佐介」が語源とされ、住所表示によって「佐助」に改称されたものと見られる。

「佐介」氏の名前に由来した説

江戸後期の鎌倉撹勝考によると、遥後の世に「佐介」を氏に名乗りしもの有りし、是は爰(ここに)住して地名を称したるなる」‥‥などと記されていることに因んだ説。

「佐介」は「坂(さか)」の意味合いがあるという説

地名学の佐介とは「化粧坂(けわいざか)」の下略語で谷間(たにあい)、峡谷(きょうこく)の意味があるとされる。

北条時盛の通称や「佐介亭」に由来

北条時盛は幕府より佐介に所領を下賜され、自身の邸宅となる「佐介亭」を築く。

以来、「佐介越後(越後守)」や、「佐介時盛」などと「佐介」を冠して呼ばれたため、「北条氏佐介流」の始祖とも云われる。

吾妻鏡によると、この佐介亭は歴代将軍が更迭された際、京師へ送還する際の宿泊所として利用されたと伝わる。

場所

現在

佐助1丁目〜2丁目を指す。

江戸時代

江戸時代から明治時代と通して扇ケ谷村の管轄に置かれる。

近世

往時は横浜市地方法務局の鎌倉出張所(佐助1丁目13-16/平成21年7月21日に閉鎖)周辺と、佐助2丁目の谷(西脇の横道の北側)を指した。




「佐助」の別名

「佐助」には多種多様な表記方法や読み方がある。

  • 「佐助ガ谷」
  • 「三介ガ谷」
  • 「佐介谷」
  • 「佐介ヶ谷」
  • 「三介谷」

「佐助」の地名は吾妻鏡に記されており、それ以前には見られないことから、およそ鎌倉時代に成立したと見れる。

「佐助ガ谷」と呼ばれた由来とは?

1159年(平治元年)の平治の乱の際、頼朝が「前右兵衛佐(うひょうえのごんのすけ)」という官位に就いたことにより、以後、頼朝卿は「佐殿(すけどの)」と呼ばれるようになる。

この頃、「平家にあらずんば人にあらず」‥などという言葉が生じたように平家一門が跳梁跋扈していた。

頼朝卿は源氏の御曹司であったことから、平家から常に目を付けられていたが、そんな折、当時、「隠れ里」と呼ばれていた現在の佐助の地に到り当地に逗留した。

余談だが、現在の佐助稲荷社と銭洗弁天社の御朱印に「隠れ里」と書かれるのはこのため。

頼朝卿が隠れ里に逗留した折、隠れ里の地主神であった宇賀神が頼朝卿の夢枕に立ち、平家討滅の挙兵を薦めたとされる。

なお、この時、宇賀神が佐殿を助けたことから、当地は「佐助ガ谷」と呼ばれるようになったとする説もある。

「三介ガ谷」「三介谷」と呼ばれた由来とは?

頼朝卿の家人である以下3人の御家人衆の館(屋敷)が建っていたことから、「三介ガ谷」と呼ばれるようになったという謂れがある。

「三介」の名前の由来
  • 三浦義澄
  • 千葉常胤
  • 上総広常

「佐介谷」「佐介ヶ谷」と呼ばれた由来とは?

吾妻鏡の宝治元年正月三十日 条によると、かつて当地の谷間には北条時房の子・越後守時盛の別邸「佐介亭」が建っていたとされ、これが「佐介谷」「佐介ヶ谷」と呼ばれた由来となる。

以後、時盛の末裔たちも当地に住み着いたとされることから、時盛以降の一族は「佐介流北条氏」と呼ばれるようになり、やがて「佐介氏」を名乗る。

佐助に在った有名な名刹・建造物など一覧

蓮華寺(れんげじ)

大日記によると、佐助に創建された後、現在の材木座に移されて寺号を「光明寺」へと改号した旨の内容が記される。別名で「悟真寺(ごしんじ)」とも呼ばれた。

佐介谷禅房(松谷寺)

1271年(文永八年)編纂の聖教(釈尊に因む経典)の「阿字肝心抄」によると当地には「佐介谷禅房」が記される。

安達泰盛の松谷別荘が在った

建治三年記の記述によると、1277年(建治三年)6月13日条では、幕府有力御家人衆の1人、安達泰盛の松谷別庄(別荘のこと)が建てられていたことが記される。

佐介松谷文庫

1321年(元応三年)正月23日、「重寿阿闍梨記」によると「佐介松谷文庫」の名が記され、これは名越文庫と双璧を成す文庫であると記す。

上杉禅秀の乱

関東管領を更迭された上杉氏憲(禅秀とは上杉氏憲の法名)が鎌倉公方である足利持氏に対して戦を仕掛けた争乱であり、後世では「上杉禅秀の乱」と呼ばれる。

この乱では佐介谷で激戦が繰り広げられ、多くの死傷者が出たと伝わる。

佐介(佐助)は頼朝卿が開いた土地だった?!

鶴岡事書日記の1394年(明徳五年)6月20日によると、元来、佐助谷は頼朝卿が八幡宮の上下宮(若宮と本宮)で執行される修正会や月例祭にて供進する神饌(お供え物)を調整する場所であったことを記す。

佐介(佐助)の地形

佐介(佐助)は鎌倉でも屈指の入会地(いりあいち/部落などの村落共同体(入会集団)が総有する又は共同利用が認められた土地)であり飛び地地帯(飛び離れた地域に土地がある地域のこと)でもある。

関連記事一覧

スポンサードリンク -Sponsored Link-


当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。