江戸時代ワケありの奥津宮の手水舎&亀の手水鉢

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奥津宮入口となる源頼朝卿が奉納したと伝わる青銅製鳥居を向かい見て右手前奥には、手水舎がある。

この手水やにはちょっとした由緒(歴史)がある。

本項ではこの手水舎と手水鉢について述べる。

手水舎頭貫に吊られる額の内容

この御手水舎は東京材木問屋 熊野屋安兵衛の奉納である。

耳ある亀を前柱の礎石に銅葺き流れ造りである。

鋳銅の亀は東京在住の青山健作氏が昭和五十四年 参拝三十周年を記念して多年蓄積の浄財を充し再復奉納されたものである。

手水舎(外観)

屋根は銅葺き、流れ造りの様式で建造された手・水・舎💋

横からのアングル

手水鉢(外観)

⬆️中央に弁財天を奉戴する社であることを示す神紋(現・江島神社の社紋)と、右端に「奉納」、左端には「東京材木問屋 熊野屋安兵衛」の刻銘が見える。

⬆️青山健作氏が1979年昭和五十四年)に奉納したと伝わる噂の‥‥「鋳銅製の亀ちゃん🐢」

⬆️サイドから撮影

甲羅の凸凹具合や首から頭にかけてのライン、尻尾、甲羅からの脚の出し具合など、亀の形が繊細緻密、見事に表現されてい‥申す。きぇ

⬆️正面斜め上からのズームアップ

頭貫の額と後方に男女トイレ

‥‥トイレ🚻はどぅでもエエやろ




東京材木問屋とは?

東京材木問屋とは、1590年(天正十八年)に徳川家康公が江戸へ入部した直後に着手した江戸城修築と大規模都市開発の際に招聘された木材流通業に携わる材木商たちが参画する組合になる。

家康公は江戸城修築工事ならびに江戸都市化計画に際し、全国より選りすぐりの木材流通に携わる商人たちを江戸に招聘し、各諸、営作に従事させた。

1606年(慶長十一年)、待望の江戸城修築工事は一応の完工を見たのだが、招聘された材木商たちには特別手当として「御府内材木商許可」が下賜された。

これはつまり、お上(将軍)から御府内(江戸城を中心とした、品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地域/現在の東京23区に相当💘)において材木を取扱ぅ商ぃを自由にしても良いと公認されたわけなのだが、そんなてぇそ〜(訳:大層)な許可証をもらっちまったもんだから、ほぉぅとんどの材木商たちはそのまま江戸に留まりぃ、日本橋木材町を中心に店を構えたはじめた‥てぇ〜わけさ。サササっ

これが江戸木材業ならびに、今日にまで受け継がれる「東京木材問屋共同組合」の濫觴ともな〜る。

家康公が統治した時代はまだ現今に見られるようなコンクリートやアスファルト、プラスチックなどあろぅわけもなく、木材は住居はもとより、家具や日用品、調度品、そして火力エネルギーなどの重要資源でもあるなど、人々が生活する上で欠かすことのできない資材だった。

東京木材問屋協同組合公式

奥津宮の手水舎&手水鉢の場所(地図)


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