鎌倉・鶴岡八幡宮「本宮(上宮)」【重要文化財】
読み方
ほんぐう(じょうぐう)
造営年
1191年(建久二年)
再建年
1828年(文政十一年)
建築様式(造り)
権現造(流権現造)
- 本殿:流造
- 幣殿:両下造
- 拝殿:入母屋造
- 廻廊:切妻造
屋根の造り
銅瓦葺
ご祭神
- 応神天皇(おうじんてんのう)
- 比売神(ひめがみ)
- 神功皇后(じんぐうこうごう)
ご神徳
家運繁栄、成功勝利、災難除けなど、所願成就
例祭日
9月15日
重要文化財指定日
1996年(平成八年)7月9日
項・一覧
鎌倉・鶴岡八幡宮「本宮(上宮)」の歴史・由来
1180年(治承四年)、源頼朝がそれまでの由比若宮を現在の場所に移して鶴岡八幡宮新宮若宮としたのが、鶴岡八幡宮の始まりでした。
鶴岡八幡宮の歴史とご祭神についての詳細は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
鎌倉・鶴岡八幡宮に祀られているのはどんな神様? 鶴岡八幡宮の歴史・由来
その後、1191年(建久二年)3月の大火で鶴岡八幡宮の若宮は消失してしまいますが、源頼朝がすぐに再建に着手しました。
この時に、若宮と共に現在のような本宮(上宮)も造営されました。
町の大火の火が届かないように、山の中腹を選んで建てられたようです。
しかしその後も1280年(弘安三年)、1296年(永仁四年)、1315年(正和四年)、1821年(文政四年)にも火災で被害を受け、その度に再建されてきました。
火災からの再建以外にも修造や建て替えが行われ、特に江戸幕府の初代将軍徳川家康、第二代将軍徳川秀忠による建て替え事業は、江戸幕府の威信をかけた大規模なものでした。
本宮が現在の姿になったのは、1821年(文政四年)の火災で焼失した後、1828年(文政十一年)に、江戸幕府第十一代将軍徳川家斉によって再建された時です。
1923年(大正十二年)の関東大震災で倒壊してしまいましたが修造され、今に至っています。
本殿、幣殿、拝殿、そして廻廊が、意匠的・技術的に優れているということで、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉・鶴岡八幡宮「本宮(上宮)」の建築様式(造り)・特徴
本宮の楼門(ろうもん)をくぐった先には、神を祀る本殿があります。
本殿とその手前の拝殿を繋いでいるのが幣殿で、上から見ると「エ」の形になっています。
このような構造の神社建築を「権現造(ごんげんづくり)」といいます。
権現とは、東照大権現、つまり江戸幕府の初代将軍、徳川家康のことです。
この造りが家康を祀った日光東照宮に採用されたことから、「権現」の名が付きました。
神社の本殿は神が降臨する神聖なところで、通常、人は入れませんので、私たちが参拝する時に入るのは拝殿ということになります。
鶴岡八幡宮本宮の造りについては、「流権現造(ながれごんげんづくり)」と表現されることもあります。
流造とは、屋根の前後の勾配を横から見ると、「へ」の字のように、前の方が長く作られ、前方の長い部分がそのまま向拝(こうはい・ごはい)と呼ばれる庇になっている形です。
流造と権現造を融合させたのが、「流権現造」なんです。
なお、本宮の3つの建物を別々に見ると、それぞれ違った造りを持っています。
本殿は流造ですが、拝殿は鶴岡八幡宮の舞殿と同じ、入母屋造の平入りです。
平入りとは、屋根の斜面がある面に出入り口が設けられ、屋根が三角に見える面が側面になる建物のことで、この反対は「妻入り」と言います。
幣殿は両下造(りょうさげづくり)と呼ばれています。
要は切妻造の妻入りのはずが、前後に拝殿と本殿をくっつけてしまっているため、妻の部分がなくなっている形、ということです。
権現造における幣殿は、拝殿の屋根の後ろ側と本殿の屋根の前側に埋もれるような、小さな建物となっています。
ただ、残念ながら私たちが本宮の全体像を見ることはできません。
また、楼門をくぐってからの写真撮影は禁止されています。
ただ、拝殿や本殿も、一部を垣間見ることはできます。
特に、屋根の下の木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)には、極彩色で彩られた、花や鳥、動物などの彫刻がたくさん施されているので、ぜひ廻廊の側面まで回り込んで、注目してみてくださいね。
鎌倉・鶴岡八幡宮「本宮(上宮)」の見どころ
本宮の渦巻き模様は火除けの「三つ巴紋」!
本宮の楼門や廻廊には、垂木や欄干の端など至るところに3つの勾玉のようなものが渦を巻いた形の図が描かれています。
これは「三つ巴(みつどもえ)」と呼ばれる紋様で、日本では水が渦を巻く様子を表した柄であるとされています。
このことから、火除け、またはそれが転じて魔除けの模様としても用いられており、度重なる火災に見舞われた鶴岡八幡宮でも、三つ巴紋を建物にちりばめて火除けのまじないとしているのです。
また、三つ巴紋は全国の八幡神社の神紋にもなっています。
これはご祭神の応神天皇が武神、弓の神であり、三つ巴など巴紋の形が弓を射る時に身に着ける鞆(とも)という武具、あるいは鞆に描かれた絵に似ていることに由来していると言われています。
源氏が鶴岡八幡宮を氏神をして崇めたことから、それにあやかろうと武士の多くが巴を家紋にしました。
鶴岡八幡宮の神紋は鶴丸紋になっていますが、若宮や舞殿にも三つ巴紋が施されているので、ある時期まではやはり三つ巴紋を使っていたのかもしれません。
本宮(上宮)楼門の扁額に鳩がいる!?
鶴岡八幡宮本宮(上宮)の入り口、楼門には「八幡宮」の扁額が掲げられています。
この扁額の「八」の字は、2羽の鳩の形で表されています。
鳩は八幡神の使いとされ、尊ばれてきたのです。
壇ノ浦の戦いでは、源義経の船に2羽の白い鳩が降り立ったちょうどその時、平家の人々が入水したという伝説もあります。
実はこの2羽の鳩を使った「八」の字は、源氏の幟旗(のぼりばた)の「八幡大菩薩」の「八」にも使われていました。
八幡大菩薩とは八幡神の菩薩号(仏としての名前)ですが、これは神仏習合の影響を受けた仏教に由来する呼び名なので、明治時代に神仏分離令が出されてからは廃止になっています。
さて、「8」は武神・八幡神の「八」ということで、関東武士にとっては縁起が良いとされる数字でした。
鎌倉大仏という通称で知られる鎌倉・高徳院の大仏は、その大きさから「八丈大仏」とも呼ばれますが、この「八」も、「八幡宮」にちなんでいるという説もあります。
ここで「八」に関する豆知識をもう1つ・・
ところで、この扁額の「八」に影響を受けたある有名なお菓子があるのをご存知ですか?
鎌倉の銘菓、豊島屋の「鳩サブレー」です。
明治時代、初代店主が鶴岡八幡宮の扁額の2羽の鳩や、境内で親しまれていたたくさんの鳩にちなんで鳩の形のお菓子をと考えていたところ、新しく作ったビスケットのようなお菓子を鳩の形にし、「鳩サブレー」と名付けることにしたということです。
ちなみに鳩サブレーの型は、この時初代が発案し作ったデザインを、今でもそのまま受け継いでいます。
本宮楼門の2体の像は仁王像!?
楼門の左右には口を開いた阿形と、口を閉じた吽形の像がありますが、寺院でよく見かける仁王像とは違いますね。
これらの像は、仁王像ではなく、「随身(ずいじん・ずいしん)像」と呼ばれる像です。
随身とは上皇・法皇などの皇族や、摂政・関白などの貴族の警護を担当した人のことです。
随身像は、随身の恰好をした、神社の守護神なんです。
随身像が安置された門であることから、鶴岡八幡宮の本宮の楼門は、「随身門」と呼ばれることもあります。
鎌倉・鶴岡八幡宮「本宮(上宮)」の場所
舞殿の後ろ側に61段の石段があり、この石段の上に鶴岡八幡宮の本宮が建っています。
石段の上から鶴岡八幡宮の境内を見下ろし、その先の若宮大路、更には海までを見渡すのは大変気持ちの良いものですが、混雑時は立ち止まると危ないですし迷惑になることもあるので、注意してくださいね。
おわりに・・
いかがでしたか?
いよいよ鶴岡八幡宮で最も尊く、最も重要な場所にやってきました!
ついついお参りをすることだけに目が行きがちですが、本宮の建物の造りや豪華な装飾にも注目して、
よりディープな参拝にしてくださいね。
鶴岡八幡宮の拝観情報や回り方の詳細は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
鎌倉・鶴岡八幡宮の拝観時間(営業時間/開門・閉門時間)・拝観料金(割引情報)・境内地図・回り方
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