【怨霊❓】木曽義高(源義高)の首塚(墓)の場所と「清水冠者」の由来や意味を知るつもり❓|鎌倉(大船) 常楽寺

️木曽の首塚(木曽塚)木曽義高の墓とは❓

木曽塚とは、朝日将軍・木曽義仲(きそよしなか)の嫡男「木曽義高(きそよしたか)」が永眠すると伝わる墳墓(墓所)になる。

鎌倉は大船(おおふな)にある常楽寺(じょうらくじ)後方の標高約100メートルの山中に佇む。

木曽義高とは簡単に説明するとどんな人物だったのか?

⬆️安政6年制作「武者鑑一名人相合南伝二」に描かれる木曽義高の画像。美男で勇猛だったと記される。https://ja.wikipedia.org/より引用)

木曽義高は木曽義仲の嫡男として伝・1173年(承安3年)にこの世に生を得たと伝わる。別称「清水冠者(志水冠者)/しみずのかんじゃ」。

義高が生まれた時、義高から見て叔父・志田義広(源義広/みなもとの よしひろ)と、親戚にあたる新宮行家(源行家/みなもとの ゆきいえ)は源頼朝卿と対立関係にあり、この2人を父・義仲が庇護したことによって鎌倉の頼朝卿のもとへ人質に出されるという数奇な運命を歩むこととなる。

行家は平家方との「墨俣川の戦い(尾張国)」、「矢作川の戦い(三河国)」にて相次ぐ連敗を重ね、頼朝卿を頼りに鎌倉へ逃れた。鎌倉では頼朝卿に所領を求めて再起を促したが拒否され、その後、木曽へ渡り、義仲の勢力下に入った。

一方、志田義広の方はと云ぅと、吾妻鏡によれば1181年に常陸国の鹿島社所領を略奪したことを1183年(寿永2年)2月20日に頼朝から諌められ、業を煮やした義広は下野国の足利俊綱・忠綱父子と結託し、頼朝討滅の軍を挙げ、常陸より下野へと軍勢を発した。

しかし、頼朝討滅の動きはすでに鎌倉方に察知されており、下野にて頼朝軍に返り討ちにされたのだった。

義仲は頼朝卿に敵視されている事実を知りつつも、頼朝卿とは従兄弟であることや、自身と同様、平家討滅の志を抱いていたことから、頼朝卿に対してはむしろ好感を抱いていた。

そこで自身の身の内(腹の中)を頼朝卿に知ってもらうのと、義広の免罪を兼ねて、わずか11歳の嫡男・義高を泣く泣く頼朝卿がいる鎌倉へと下らせた。

これにより両者の間には講和がもたらされたが、名目上は頼朝卿と北条政子との間に生まれた長女・大姫との婚儀のためとし、本意は人質として送りつけたのだった。(義高と大姫は又従兄妹(またいとこ/はとこ)にあたる)




なお、義高は鎌倉へ下る際、信濃の豪族・海野幸氏や望月重隆を随伴させたと伝わる。

その後、義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて木曽谷にて挙兵し、京師を目指して進軍することになるが、義高は鎌倉の頼朝卿のもとで人質として過ごすことになった。

義仲には天性の戦の才能があったが、配下に女武者の巴御前はじめ、日の本屈指とも呼べる猛将たちが在籍していたこともあり、木曽谷の挙兵後、次々と平家方の将を撃破し、入落はそれほど困難を伴うものではなかった。

一方、京師(京の都)では平家一門が朝廷権力を牛耳り、我が世の春を謳歌していたが、平維盛(たいらの これもり)を総大将とした北陸追討軍10万余騎がクリカラ峠(倶利伽羅峠)の戦いで義仲に撃破されると、趨勢は大きく源氏方へ傾いた。

行き場を失った平家一門は京師を捨て、福原(神戸)を経て太宰府(北九州)へと落ちのびる旅に出る。

勢いに乗る義仲軍は朝日が昇る勢いで入落を果たし、歓喜の雄叫びをあげた後白河院は義仲と行家を自身が座する「法住寺殿(現在の三十三間堂)」へ招き入れ、正式に平家討滅と京師の警固の任を与え、特に戦功のあった義仲には「朝日将軍」の称号を授けた。

以後の義仲は後白河院のお墨付きを得たことで有頂天になり、平家同様、自身らの功績を棚に上げ、都で横暴狼藉をはたらくようになった。

その様子を見知った後白河院はやがて義仲を見かぎりはじめ、ただちに義仲に対して西国へ落ちのびた平家一門の追討に向かうよぅ院宣を発する。

実はこの当時、西国は不作に見舞われ食糧難にあったことから義仲はロクに軍備を整えることができなかったが、院宣を受けたこともあってただちに西国へと平家討滅へ向かったのだが、平家軍に惨敗し続けた。(一説に義仲の軍が横暴狼藉を働いたのは食糧難が原因だったとも云われる)

やがて義仲は陣中にて、頼朝卿と後白河院との間に不穏な密議が交わされているのを知り、激怒した義仲は急遽、軍を退きあげ、院の座す京師へ馬を返した。

内容としては、義仲のこれまでの功績は源氏の惣領たる頼朝が命令したと思わせるような意識付けを後白河院に匂わせており、結果、院より頼朝卿が最大の恩賞を授かったと云ぅものだった。

この一報を耳にして義仲以上に忿怒の形相をあらわにしたのが配下の諸将たちであり、諸将たちの煮えたぎった忿怒は義仲の心をも躍動させ、ついに後白河院を捕縛して幽閉するという暴挙に出た。

しクぁし!

院を捕縛した結果、義仲軍は武家社会から信望を失って劣勢に陥り、北陸への逃走を図ったが、頼朝卿が操作する鎌倉幕府軍と一戦交えることになり、近江国粟津ヶ原にて討ち取られた。享年31歳。(粟津の戦い)

苦境に立たされた義高

一方、鎌倉を居処とした義高は大姫と心を通わせるほどの仲になっていたが、父・義仲が逆賊として頼朝卿に討ち取られると、その長子である義高の立場は危うくなった。

大姫は父・頼朝が義高の命を狙っていることを察知すると、自らの衣を義高に着させ、馬を手配して鎌倉から逃がそうとする。

義高も大姫の気持ちを汲み、自らは女人に身をやつし、馬の蹄(ひづめ)に布を巻きつけて音を消し、密かに逃亡を図ったのだが、逃亡の事実を知って激怒した頼朝卿は被官の堀親家(ほり ちかいえ)に追討を命じた。

そして、1184年(寿永3年)6月6日(元暦元年4月26日)、親家ら一行は武蔵国にて義高を捕縛し、入間河原(埼玉県狭山市入間)にて親家の郎党・藤内光澄が斬殺するに至った。

江戸後期の「鎌倉揮勝考」によると、義高の首は首級(しゅきゅう)として鎌倉へ移送され、鎌倉にて首実検後、「木曽免」と呼ばれた地の田んぼの間に塚を築いて埋葬したことが記されてい‥‥‥申す。タンヴァっ(”田んぼ”を表現)

怨念⁉️埋没し忘れされた木曽義高の塚

東鑑(吾妻鏡)によると、それから星霜経た1680年(延宝8年/江戸時代)2月、当時、田んぼの持ち主であった石井(某)と申す者が、地中より高さ2尺、周囲3尺余り、上に崩れた五輪塔をいただく形状の石材を発見する。

その石材の下から青磁の瓶と内部より人骨が見つかり、急ぎ、近くにあった常楽寺へ持ち込んだと伝わる。

この後、常楽寺でも調査が進められたが、板碑が現存することなども踏まえ、これが木曽清水冠者義高の首塚であったことが明らかにされた。

ところで‥‥「木曽免」とは?

木曽免とは「きそめん」と読む。木曽免とは地名になるが、「木曽」の意味とは、やはり木曽義高に由来したもの。「免」とは貢納のことを意味する。

かつて義高の塚の周辺の地名を「木曽免」と称し、塚周辺は田地が広がっていたとされ、これらの田地では義高の塚に免じて貢納の一部が免除されていたことが想像につく。(おそらく義高の塚へ収穫した作物の一部を供物として捧げていた)

埼玉県坂戸市小沼にも「木曽免」と呼ばれる地名があり、同様に木曽義高をかくまったとされる宮あるなど、木曽義高との縁のある場所となる。

「免」の意味

一問一答で解せば「免除の免」になる。

概ね「免」と付された土地の付近には名のある亡き個人の塚や寺社があり、これらの祭祀対象には収穫物の一部を供物として捧げていた。

もしくは収穫物を金銭に換えて奉納していた。

時の権力者たちもその行為を容認していた事から供物として納めた収穫物は税の免除と云う事で国庫へ納めなくても良いとした。

他に「油面(油免)=荏胡麻油などの庶民の生活に欠かせない灯篭の油」などもある。

鎌倉志では、木曽免の場所は現在の大船5丁目あたりとし、常楽寺の西南およそ110mの場所に相当する。

その後、常楽寺にて「木曽塚」と命名の上、現在地にて供養され、今日に至る。

なお、塚と同時に掘り出された板碑の方は、現在、鎌倉国宝館に寄託の上、収蔵されてい‥‥‥申す。イタピャっ(”板碑”を表現)

往時の木曽免の場所(地図)

現在の木曽免(大船5丁目)周辺には三菱電機の技術研究所が建つ。

義高の死後

秘密裏に実行されるはずだった義高謀殺計画は、やがて大姫の知るところとなってしまった。

大姫は悲しみのあまり病床に伏すと、母・政子は頼朝卿への怒りをあらわにすると共に、斬殺した光澄を糾弾し、いくら主命といえど大姫に対し相談を持ちかけるなどの配慮を怠った罪を問ぃ、押し切られた頼朝卿は光澄を斬首の上、さらし首にした。

ただ、義高に使えた海野幸氏と望月重隆は頼朝卿に気に入られたこともあり、以後は鎌倉幕府の御家人となって頼朝卿、ならびに幕府に奉仕した。

海野幸氏・望月重隆らは弓の名手として知られ、武田信光、小笠原長清らと肩を並べて「弓馬四天王」に列し、鶴岡八幡宮で執行された放生会(ほうじょうえ)流鏑馬(やぶさめ)にてその腕前を存分に披露したと伝わる。

「清水冠者」の名前の由来

清水冠者は「しみずのかんじゃ」と読み、他に「志水冠者」とも書かれる。

「冠者(かんじゃ)」とは、男子が成人(元服)した折に冠を付けて名乗る名前のこと。

しかしながら「清水」の名前の由来については、あらゆる旧記にもハッキリきりきり高坂桐乃ほどハッキリと記されておらず、諸説語り継がれているようだが、有力な説としては、義高の乳母の出身地が由来となっているとのこと。どんな度合いや (…またこのクダリか)もぅ飽きた 秋田県 ….。…?

例えば、善光寺付近の箱清水と云ぅ説や、松本市丸子町の正海清水(しょうかいしみず)、小諸市の清水などが挙げられてい‥‥‥申す。シミクゥヮンっ(”清水冠者”を表現)

箱清水説の解説

「箱清水(はこしみず)」とは、「善光寺七清水」の1つに数えられるほどの名水で、別名「箱池(はこいけ)」とも呼ばれ、当地の地名の由来にもなってい‥‥‥ます。….クカ

「善光寺七清水」一覧

七清水一覧読み方清水がある場所(所在地)
箱清水はこしみず箱清水
鳴子清水なるこしみず諏訪町
一盃清水いっぱいしみず花岡平
瓜割清水うりわりしみず新諏訪町
傾城清水けいせいしみず上松
柳清水やなぎしみず往生寺
夏目清水(夏清水)なつめしみず(なつしみず)西長野
垢清水(清水)あかしみず東之門町

正海清水説の解説

正海清水は義仲をはじめとした里の者の飲用水だったと伝わりゅ。

小諸市の清水説の解説

小諸市(こもろし)諸(もろ/地区名)の北西には「土井ヶ池」があり、この池の畔には若宮八幡宮が佇んでいたと伝わりゅ。….さっきから”りゅ”連発しとるが深ぃ意味あんのか?

義高が元服を行なった際、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことになんとぉぅ!池中から大量の水が噴き出し、これを吉兆として清水をいただき、「清水冠者」と名乗った説。

木曽塚(木曽義高のお墓)は当初から常楽寺の裏山には無かった❓

前述したように、鎌倉同人會碑文の碑文によると、当初は「西南約二町 木曽免田」にあったとされ、後年、当地から現在地へ移築されたと伝えられる。




木曽塚(木曽義高のお墓)or姫宮塚への行き方

この写真には常楽寺入口とその左に看板が見える。

この看板の左脇には山の方へ向かって延びる小道があるので、これを直進する。

直進すると「La qwan 楽庵」というレストランが出現するが、このレぅぇストルぅぁンを横目にさらに直進する。

すると写真のようなお墓が数石と、その手前に一軒家が見えるが、その一軒家脇に山へと登っていく小道がある。

この小道に沿って山内へと登っていく。

山内での道は丸太が等間隔で敷かれるなど、ある程度は補強されているので道悪ではない。ただ、ビール‥ではなく、ヒール!!は控えた方が無難。スニーカーがオススメ。…登山後の一杯は格別💘

山内を登り始めて100メートルもしない場所に石祠が見えてくるが、これが「姫宮塚」と呼ばれる大姫(伝・北条泰時の娘)の御霊を祀った墳墓となる。

⬆️姫宮塚

なお、鎌倉志によると源頼朝と政子の長女「大姫」の墳墓とも伝えられる。…はてさて。うきゃ

姫宮塚から木曽塚への行き方

姫宮塚を正面に見て左脇に目をやると、さらに山へ登っていく小道があることの気づく。

この小道をさらに登っていく。

すると写真のような毎度おなじみの「鎌倉同人會(鎌倉同人会)」が建立した石碑が見える。

石碑の内容(碑文)

「木曽冠者義高之塚」

義高は義仲の長子なり 義仲嘗(かつ)て頼朝の怨(うらみ)を招きて
兵を受け将に戦に及ばんとす義高質として鎌倉に
至り和漸(ようや)く成る 爾来(以来)頼朝の養う所となり其女(そのおんな/娘)を得て妻となす
後義仲の粟津に誅(ちゅう)せらるるに及び遁(逃)れて入間河原に至り捕へられて斬らる
塚は元此地の西南約二町木曾免(きそめん)といふ田間に在り
しを延寶(宝)年中(1673〜1681年)此に移すといふ  旭将軍が痛烈にして
豪快なる短き生涯の餘(余)韻を傳(伝)へて數竒(数奇)の運命に弄(もてあそ)
ばれし彼の薄命の公子が首級(しゅきゅう/首のこと)は此の地に於て永き
眠を結べるなり

鎌倉同人會の石碑の横を見ると下掲写真のような墓石のようなものが視界に入る。

この暮石は表面が風蝕作用によって見づらくなっているが、よく見ると次のような陰刻が見える。

木曽清水冠者義高公之墓

そぅ!つまりこの暮石のような物体こそが木曽義高の墓(木曽塚)となる。

暮石の後ろを見れば卒塔婆(細長い板)も見える。卒塔婆が真新しいので代々、手厚く供養されている様子がうかがえる。 

 

木曽塚の後方は「大船むくどり公園」

なお、木曽塚の後方は”むくどり”だけにムクっとするほどの公園になってい‥‥申す。ムキキュァっ どゆ意味や

この公園のある場所は往時は「粟船山」と呼ばれた場所であり、おそらくその山頂にあたる場所。時代の変遷を感じる。




木曽塚(大船むくどり公園)からさらに奥へ行ける❗️

木曽塚を正面に見て右側に目をやると、山道が続いていることが分かる。

物は試し。道がドコへ通じているのかを検証してみた。….”検証”❓

写真の道を進むと、ミニ地蔵や石版、それにお墓がある。おそらくこの場所も常楽寺境内と思われる。

このお墓群から麓(山の下)へ戻るには、元来た道を引き返すか、このお墓群から山の下へ至る道がある。

⬆️文化9年(1826年)の刻銘が見える

⬆️鳥居のようなものも見える  ⬆️左の石版は宝永元年(1704年)、右の地蔵さんには 「元禄元年)1688年」の刻字が見える。

⬆️如意輪の石仏も見える。

つまり、木曽塚や姫宮塚を経由して常楽寺の後方を歩くことができて、グルっと一周できることになる。

⬆️明治の廃仏毀釈の名残なのか?墓所と地蔵(石像)が混在する形でまるで寄せ集められるようにして配祀されてい‥‥申す。…キャ




常楽寺から木曽塚の進み方(おすすめルート)

常楽寺の山門を一旦出て、右の看板前から山方向へ延びる脇道を進み、山中を歩き、姫宮塚→木曽塚(むくどり公園)を経て、さらに右奥の小道を進み、おおぞら幼稚園を目指して下山する。

おおぞら幼稚園の前の道を直進して大通りを臨み、左を向いて直進すると弁当屋(ほっともっと)とその前に「常楽寺」バス停がある。

このバス停からは大船駅行き方向と北鎌倉を経て鎌倉駅方向へ至るバスが運行してい‥‥‥申す。….ピャ

⬆️鎌倉駅・北鎌倉駅行きの「常楽寺」バス停。大船駅行きは逆のバス停になる。

木曽塚での滞在時間

木曽塚での滞在時間は移動時間も含めて多く見積もって約30分。

平均で20分あれば看板前から常楽寺後方の裏山をめぐってバス停手前の道まで戻ってこられる。

木曽塚までの登山道の角度はわりと緩やかなので、エラいこっちゃでどなぃしまんねん状態にならぬぁぃ。‥と思う。

ただ、スニーカーのような機動力を確保できるシューズを履いてくるのが無難。

木曽塚(木曽義高のお墓)の管理は誰がしてる❓

木曽塚の前には花が活けられているが、新しいことから定期的に取り替えられて、手厚く供養されている様子がうかがえる。

この塚について山の下に広がる常楽寺の住職へお聞きしたところ、どうやらこの塚は常楽寺の方で管理されているとのこと。

考えてみたら、この裏山にはお墓が点在しており、つまりは常楽寺の境内地ともなる。

だとすれば、木曽塚付近にある姫宮塚もセットで常楽寺で管理されていることになる。

常楽寺とは❓

山号を「粟船山(ぞくせんざん)」、寺号を「常楽寺(じょうらくじ)」と称し、3代執権・北条泰時が創建した禅刹になる。

往時は「粟船御堂(あわふねみどう)」とも呼ばれ、「大船(おおふな」の地名の由来になったと伝わる。

常楽寺の詳細については下記ページにて💘

木曽塚(木曽義高の墓)の場所(地図)

大船駅から徒歩約15分の場所に建つ、常楽寺(じょうらくじ)の裏山にあたる粟船山の中腹にある。

一見、人っ子一人いなぃ、木々が繁茂した山の中腹にあることから、それが墓とは分からぬぅぁぃ。きゃキャきゃ

ちなみに「大船」とは北鎌倉よりもさらに以北に拓かれた鎌倉一の規模を有する歓楽街のこと。

古都・鎌倉の風趣とは異なり、セーゲンやオケカラ、風俗店、市場、居酒屋、風俗店、西友やヨーカドーなどのスーパー、風俗店‥などの商業施設が混在した超・都会的歓楽街となる。 ..”風俗店”の3連発にどんな深けぇ意味が潜むのか❓

※追伸:風俗店は藤沢地区に多い模様※

木曽義高のお父さん「木曽義仲」の首⁉️の行方について

下記ページを要チェックやでぃ❗by.彦一

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